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3. ベルリン チェックポイント・チャーリー [1986年~91年東ドイツ回想録]

まだベルリンの壁がある時代。
西側からチャーリー検問所を臨む。ここがFriedrich Str.にある観光客が多く訪れる国境検問所だった。この右手前の角に壁博物館がある。

もう少し検問所に近づく。

もう少し。

You are leaving the American sector.
という看板、そしてアメリカ国旗が立てられているのがみえるだろうか。
まさに「今あなたは西側を離れようとしている!」という警告だ。
この右側の歩道をまっすぐ行くと、「歩く人用」という看板があって、歩いて国境を通る人のための入り口になっている。
車道は車で通る人用。左側の歩道の先の入り口は外交官パスを持っていて歩く人用。もちろんフリーパスである。車も中で右と左に分かれるようになっていて、左に行けば、外交官の特別ナンバーの車、右はその他で、人と車と両方検問を受ける。

さて、西ベルリンから歩いて国境を越えるには(東に入るには)、この門の中に入り、進んでいくと建物の入り口に続いていく。そこがパスポートコントロールになっていて、建物の中の正面に上半分だけがガラス張りの小さな小部屋がある。その中の小窓の向こうに係官がひとりこっちを見て座っている。小部屋というより人がやっと一人通れる細い通路というべきか。そこに一人一人はいっていくのだが係官がブザーを押しているときだけドアは閉開可能だから勝手に入ったり、勝手に出たりはできなくなっている。そこからは基本的に一人行動になる。そこでパスポートの写真と実物の顔をまじまじと見られ、スタンプが押される。観光客の方は隣に窓口があったと記憶しているが、ここで1日観光ビザに加えて西の25マルクを東の25マルクに1対1で交換しなければならない。
細い通路を通り、またドアがある。そのドアもブザーが鳴っているときしか閉開できないから、パスポートコントロールの係官が手動でやっているのでとても効率が悪い。
そして、パスポートコントロールを抜けると、また細い通路を左に曲がったり右に曲がったりして道なりに進んでいくと、ちょっと広い部屋にたどりつく。今度はそこが税関ということになる。そこでは荷物チェック。
基本的に、西側の新聞、雑誌、ビデオテープなどの資本主義の国々の情報、文化がわかるものはご法度だった。時と場合にもよるが、この荷物チェックはかなり厳しいものだった。
徒歩の場合、この部屋を無事抜けると、また迷路のような通路を右に左に通り抜け、外に出られる。そこはもう東ドイツだ。

観光客の多い時期はこの建物に人がいっぱいあふれ出す。
観光客の受け入れは外貨を稼ぐ絶好の手段でもあるはずなのだが、どんなに人が待っていようと、彼らの仕事はいつもと変わりない。通り道はたったひとつ。建物の中には椅子もトイレもない。人が簡単に走って通れないように迷路のように通路が曲がりくねっている。この国境はそう簡単には渡らせない、社会主義を守るための国家の意図を身近に感じられる瞬間だった。

私のビザは何回でも行き来ができるビザだった。お金の交換はなかったが、観光客と同じようにパスポートチェックと荷物検査は受けなければならなかったので観光客の多い時期はかなりのストレスになった。
それでも毎日のように一人でこの国境を行き来する生活を始めた。
食料、日用品の買い物、病院、学校、美容院、演奏会、オペラ、バレエ・・・レストランでの食事、お友達とのランチ・・・・・
東に住んでいながら、生活のすべてを西で調達する生活だった。
心の片隅では、東の人達が命をかけても超えたいと思っている壁をいとも簡単に越えている・・・と時に神妙思いながら。


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コメント 15

ブルーメン

こちらもとても貴重な写真ですね!
私もぜひベルリンには一度行ってみたいと思っています。
ベルリンは歴史の大切な舞台だと思います。
歴史が好きな主人にこの写真を見せたところ、食い入るように
見ていました。今は自由に行き来できるようになり、
何だか不思議な気もします。
同時に、この壁を越えようとして多くの方が亡くなったことが
本当に残念です。
また次回の更新も楽しみにしています!
by ブルーメン (2007-07-28 19:44) 

noie

貴重な体験をお聞かせいただき、ありがとうございます。
慣れるまで、検問所の通り抜けは、ドキドキなさったことでしょう。
海外で暮らすだけでも大変な上に、共産圏での不自由な
生活を考えると・・・想像を絶します。
rinoさんはたくましいですね。
優しくて強くその上明るい、日本女性の鏡のようです。
Prima!!
by noie (2007-07-28 20:20) 

めぎ

わたしは車で超えたので、その「歩く人用」の方は知りません。そこを毎日のように行ったり来たりしている人がいたということも知りませんでした。
うちのドイツ人の母親は東ドイツ側の出身で、戦後はたまたま西側にいて故郷と分断されました。長い長い時を経て、今は東側に住んでいますが、冷戦中はまさかこんな日が来るとは予想ができなかったですよね。
どんなに人が待っていようと気にせずやり方を変えないお役所仕事は、今のドイツも同じですよ。
by めぎ (2007-07-28 22:14) 

もとこさん。

貴重な体験を読ませていただきながら、なんだかどきどきしてしまいました。ソ連だったころのモスクワでの入国手続きを思い出します。
by もとこさん。 (2007-07-28 23:00) 

rino

satoeさま
ご主人様もご一緒に見てくださりありがとうございました。
私のブログは一主婦の思い出話に過ぎないのですが、ちょっと印象に残っていただければ、ベルリン旅行も一味違うものとなるのではと思います。
by rino (2007-07-29 00:40) 

rino

noieさま
普段は本当に情けない人なんですが、海外に出ると急にたくましくなる時があります(笑)
by rino (2007-07-29 00:45) 

rino

ドイツ人さんのお母様は東側出身でしたか・・・感慨深いものがありますね。ベルリンの壁開放のニュースを聞いたときはどんな感じだったのでしょうね。
by rino (2007-07-29 00:51) 

rino

共産圏への入国はきっとどこも大変だったのでしょうね。独特の緊張感がありましたよね。
by rino (2007-07-29 00:54) 

なお

貴重なお話ありがとうございます。
壁を越えたくても超えられない人々・・・
切ないですね。壁が無くなって本当によかった。
ニュースで見た、壁が壊され、人々が泣きながら抱き合っている
姿を思い出しました。
by なお (2007-07-29 09:56) 

krause

貴重なお話を有難うございました。とても参考になります。
by krause (2007-07-29 12:24) 

rino

Krauseさま
niceとコメントをありがとうございました。
今までこのような体験を人様にお話したことがなかったので、興味を持ってくださる方がいてうれしいです。
by rino (2007-07-29 13:11) 

ドイツに行く娘に、このような歴史があったこと、
学んではいても、貴重なお話を実際に聞くことは
ないので、rinoさんのブログを読むように伝えます。
by (2007-07-29 17:28) 

メッセージ送りました~(^o^)丿
by (2007-07-29 19:37) 

polo

はじめまして。
チェックポイントチャーリーには行ったことがあったのですが
検問のあった時代の貴重な写真を見たのははじめてでした。
by polo (2007-08-09 03:55) 

Calis

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by Calis (2018-04-15 05:42) 

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