SSブログ
1986年~91年東ドイツ回想録 ブログトップ

1. 私のベルリンの始まり [1986年~91年東ドイツ回想録]

1987年4月 ベルリン ブランデンブルグ門 西側より撮影 

私は1986年~1990年までの5年弱を夫の駐在に伴い、当時まだドイツが東と西に分断されてい
た時代の東ベルリンに住むことになった。
当時はまだ「冷戦」の時代。今では小学生の社会の歴史テストに出てきそうな言葉だが、いや実に
本当に確かに冷戦の時代だった。
飛行機はソ連の上を飛べないからアンカレッジ経由の北極まわり。その時代の皆様には共感していただけると思うが、ヨーロッパって遠かった。
こんな遠いヨーロッパのしかも社会主義国である東ドイツに住むなんて・・どんな所だろう・・
生活物資は?病院は?戦争の危険は?・・・など不安ばかりだった。

西ベルリンのテーゲル空港に降り立った私は数ヶ月先に赴任していた夫が車で迎えに来てくれていて、自宅のある東ベルリンへ向かう。途中、西ベルリンのスーパーで食料品を買いだめた。
国境検問所であるチェックポイントチャーリー(Friedrich str.)で車ごと検問を受け
緊張のうち無事通過。ここからは東側。
高級高層アパートと称される外国人専用のアパートに着いた。国境のチェックポイントチャーリー
からは徒歩でも3分くらいのところだった。
自宅のあるアパートの9階の窓からは壁のムコウの西ベルリンが見えて、寝室側の裏手の窓からは
ドイツ教会、フランス教会がすぐ臨めた。今でこそ絶好の観光スポットに住んでいたことになる。

さてここが、これからはMy Home。
窓を開け、風を入れて・・ドイツの香りを吸い込む。清清しい気持ちになった。
その日から、東西を、ベルリンの壁を自由(?)に往復する日常が始まった。
今から20年近くも前の話である。




2. ベルリン窓から見えた景色 [1986年~91年東ドイツ回想録]

1987年 リビングの窓から 

真ん中奥の白い近代的な建物あたりはもう西ベルリンになる。
ブログに載せようとアルバムを開いてみると、初めのころの写真があまりないのに気がつく。
自宅から旅行に出た時の写真はけっこうあるのだけど、日常の写真を撮る習慣がなかったのだ。
思えば、残念ながらこの生活の記録を残すために・・とかあまり考えていなかった気がする。
もう少し郊外へ行けばきれいな所もたくさんあるのだが、外国人の住む家は当局から決められている場合がほとんどで、我々のいたアパートには各国の大使館の方々、企業の方々などが住んでいた。アパートの周りはいつも警察の見張り、部屋の中には盗聴器、そして電話は常に盗聴されているという環境だった。外国人が監視されているということの他に、東独人が西側の外国人、つまり資本主義の文化に触れないように、監視しているという意味もあった。

1987年 裏の窓から 

手前からドイツ教会、その向こうにコンツェルトハウス、フランス教会。
教会の左の白い近代的な高層ビル(IHZ)の中に夫の勤務先があった。
そしてそのビルをずっと左手の方へ行くと、ブランデンブルグ門の方へ続いている。
夕飯の下ごしらえが終わると、夫の帰りを待っていつもこの景色を眺めていたことを思い出す。
うちのアパートと教会の間はこんな風に資材置き場になっていたのだが、
後にここは現ヒルトンホテルが建つことになる。

たまたま2枚ともお天気の良くない日の写真なのだが、イメージとしてはこんな感じ。
西ベルリンはカラー、東ベルリンはモノクロ。
でも今となっては素朴なオストな場所が貴重になっている。
それにしても、なんでこんなに写真の撮り方がヒドイのでしょう・・
この時、まさかこの写真をブログで公開しようなどとは夢にも思ってなかったけど・・・↓


3. ベルリン チェックポイント・チャーリー [1986年~91年東ドイツ回想録]

まだベルリンの壁がある時代。
西側からチャーリー検問所を臨む。ここがFriedrich Str.にある観光客が多く訪れる国境検問所だった。この右手前の角に壁博物館がある。

もう少し検問所に近づく。

もう少し。

You are leaving the American sector.
という看板、そしてアメリカ国旗が立てられているのがみえるだろうか。
まさに「今あなたは西側を離れようとしている!」という警告だ。
この右側の歩道をまっすぐ行くと、「歩く人用」という看板があって、歩いて国境を通る人のための入り口になっている。
車道は車で通る人用。左側の歩道の先の入り口は外交官パスを持っていて歩く人用。もちろんフリーパスである。車も中で右と左に分かれるようになっていて、左に行けば、外交官の特別ナンバーの車、右はその他で、人と車と両方検問を受ける。

さて、西ベルリンから歩いて国境を越えるには(東に入るには)、この門の中に入り、進んでいくと建物の入り口に続いていく。そこがパスポートコントロールになっていて、建物の中の正面に上半分だけがガラス張りの小さな小部屋がある。その中の小窓の向こうに係官がひとりこっちを見て座っている。小部屋というより人がやっと一人通れる細い通路というべきか。そこに一人一人はいっていくのだが係官がブザーを押しているときだけドアは閉開可能だから勝手に入ったり、勝手に出たりはできなくなっている。そこからは基本的に一人行動になる。そこでパスポートの写真と実物の顔をまじまじと見られ、スタンプが押される。観光客の方は隣に窓口があったと記憶しているが、ここで1日観光ビザに加えて西の25マルクを東の25マルクに1対1で交換しなければならない。
細い通路を通り、またドアがある。そのドアもブザーが鳴っているときしか閉開できないから、パスポートコントロールの係官が手動でやっているのでとても効率が悪い。
そして、パスポートコントロールを抜けると、また細い通路を左に曲がったり右に曲がったりして道なりに進んでいくと、ちょっと広い部屋にたどりつく。今度はそこが税関ということになる。そこでは荷物チェック。
基本的に、西側の新聞、雑誌、ビデオテープなどの資本主義の国々の情報、文化がわかるものはご法度だった。時と場合にもよるが、この荷物チェックはかなり厳しいものだった。
徒歩の場合、この部屋を無事抜けると、また迷路のような通路を右に左に通り抜け、外に出られる。そこはもう東ドイツだ。

観光客の多い時期はこの建物に人がいっぱいあふれ出す。
観光客の受け入れは外貨を稼ぐ絶好の手段でもあるはずなのだが、どんなに人が待っていようと、彼らの仕事はいつもと変わりない。通り道はたったひとつ。建物の中には椅子もトイレもない。人が簡単に走って通れないように迷路のように通路が曲がりくねっている。この国境はそう簡単には渡らせない、社会主義を守るための国家の意図を身近に感じられる瞬間だった。

私のビザは何回でも行き来ができるビザだった。お金の交換はなかったが、観光客と同じようにパスポートチェックと荷物検査は受けなければならなかったので観光客の多い時期はかなりのストレスになった。
それでも毎日のように一人でこの国境を行き来する生活を始めた。
食料、日用品の買い物、病院、学校、美容院、演奏会、オペラ、バレエ・・・レストランでの食事、お友達とのランチ・・・・・
東に住んでいながら、生活のすべてを西で調達する生活だった。
心の片隅では、東の人達が命をかけても超えたいと思っている壁をいとも簡単に越えている・・・と時に神妙思いながら。


4. 東ドイツの選挙事情・・私が聞いたハナシ [1986年~91年東ドイツ回想録]

今日、日本は第21回参院選、国政選挙の日だ。
私は早々に投票を済ませ、このブログを書いている。

私が東ベルリンに住んでいた頃、滞在3年目頃から東独人女性から家庭教師としてドイツ語を教えてもらうようになった。彼女は背が高く、金髪のロングヘアー、年齢のわりには大きなお嬢さんが二人いる美しい女性だった。
取り立てて反政府だとか、変わった思考の持ち主だとか、そういったこともなく私が思うに、ごく普通の階層の市民だったと思う。ただ、外国人家庭に出入りするわけだから、冒険心や、西側へのあこがれはある方だったかもしれない。
ドイツ語の文法を学びながらも、私が勉強が嫌になるとお茶を入れておしゃべりをし、それでその日の授業が終わってしまうなんていうこともたびたびだった。彼女は私を信用してくれていて、誰にも話さないようなことを随分話してくれた。「うちには盗聴器があるかも!」と言うと、そんな危険な話のときは声をひそめて、それでも何より私を信頼して話をしてくれることがとても嬉しかった。
その頃の私のドイツ語と言えば初級クラスを繰り返している程度だったが、気心も知れて仲良くなってくると相手の言っていることがなんとなく解かるものだ。
それでも一応ドイツ語のレッスンと称して我が家にやってくるわけだから、
会話の中でわからない単語は遠慮なく聞けるし、それでもわからなければ辞書をひけばよい。

そんな話の中で特に衝撃を受けたのは選挙の話だった。
東独の選挙投票率は100パーセントに近い数字だった。
まずこの事実だけでも日本では考えられないことだが、それには仕組みがあるという。
まず投票には絶対行く。行かないと誰が投票してないかわかってしまう。
投票しない=反政府=その家は出世できない・・という仕組みができあがっているという。
投票用紙には反対のときだけ何か書くようになっていて、誰が反対したかはすぐにわかってしまうから反対はなかなかできない。
私のドイツ語力と記憶の力では曖昧さが残ってしまうが、なんとなくどういう状況なのかはおわかりになるだろう。
それまでもそういう国だということはわかっていたつもりだったが、実際に生の市民の声を聞けて、「やっぱり本当なんだ。何のための選挙なの?共産主義って・・・・。ここを変えればもっと国が変わるかもしれないのに。」・・・なんて偉そうに夫にそんな論議を持ちかけたりしたものだった。
そして、何か私の心の中にずっともやもやした気持ちが残ったのは、彼女がそれを家族以外の東独人に言うことができないという事実だった。
言論の自由はない国だった。

東ベルリン時代の ウンターデンリンデン


5. 東ベルリンのスーパーで [1986年~91年東ドイツ回想録]

東ベルリンの街並みはなんとなくモノクロだったがそれはそれでなんとも趣があった。
・・と今になって思う。
西側のような派手な飾りもネオンもなく、静かなたたずまいだった。

ある日、うちのアパートの斜向かいの食料品スーパーに買い物に行ってみた。
面積としては大きなスーパーである。
売っているものは黒パン、ビニール袋に入った牛乳、バター、チーズ、野菜のびん詰め、パスタ、小麦粉、調味料、ハム、ソーセージ、肉、ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、ビスケットやお菓子・・
・・・などなど。しおれたきゅうり、きゃべつなども・・・・
結構何でもある。だいたい最低限基本的な物はある。もちろん、これで十分普通に暮らせる。

ただ、西側の人が見たら違いは歴然としていた。何の工夫も凝らされていないお店の
雰囲気もさることながら、
レタスなどの新鮮な葉物野菜や、色とりどりの野菜、季節外のくだものや南国の果物・・
こういったものはほとんど見かけたことがなかった。
スーパーの一角で人の行列があった。何だろう?と思って一番前まで行ってみると、
それはバナナだった。
当時はまだめずらしかったバナナを求めて人々は並んでいるのだ。
バナナが貴重品の時代・・日本では何年前のことだろう・・とそのとき思った。
私はこの列には並んではいけないと思った。

社会主義国の優等生だった東ドイツは、普通の生活を営むには十分満たされていたと思う。
世界に誇る博物館だって演奏会だって、オペラだってある。
ただ必要以上の贅沢はできない。
贅沢や娯楽がなくて不満を感じる人達はそれを知っている人たちである。
昔、贅沢な物がない時代にはそれを当たり前として過ごせたのだろう。
それを知らなければそれはそれで幸せに生きていけるものではないだろうか。
国家が西側の文化、情報を入れたくなかったのはそんな事情でもあった。

東ベルリンの大聖堂とテレビ塔


6. 東ドイツの贅沢事情 [1986年~91年東ドイツ回想録]

壁のあった時代とは言え、今から20年くらい前の日本を思い出すと、もうとっくのとうに何でもあふれかえっている時代が来て久しい頃である。
そんな日本からいきなり東ドイツ住むことになると、驚かされることがあった。

東独では子供が産まれるとすぐに車の免許をとる申請と車を買う予約をするというのである。
それは親のためではない。産まれたその赤ちゃんが大人なった時に、車を使えるようにするためである。
用意周到な親はそんな風に計らうのだが、それもなくいざ、大人になって車を買おうと思っても15年くらいは待たされたそうなのだ。15年って・・・そんなに・・。
それだけ、贅沢品であった車を生産する材料がないということだったのだろう。
電話もそんな贅沢品だった。我が家には外国人用のアパートで電話はあったが、普通のドイツ人の家でも電話のない家庭はたくさんあった。
滞在3年目くらいからうちにドイツ語の家庭教師の女性(東独人)に来てもらうことになったが彼女の家には電話はなかったので、いつも次の約束を必ずして別れた。何か変更があった場合は彼女は公衆電話から電話をかけてきたが、私がどうしても日時の変更をしなければならなかった時は玄関に張り紙をして出かけたことがあった。とても申し訳なく、また不便に思えた。
こんなことは何十年も前ならどこの国もこんな世界だったのだろうし、現に今もそういう事情の国は
いくらでもある。
そういう事がわかっていてもいざ、自分が時代をタイムスリップするような経験は驚きの何ものでもなかった。

当時の東独の主流の車、トラバント。大きなドイツ人がとっても小さな今にも壊れそうな車にぎゅうぎゅうに乗っている光景はもうあまり見られないのだろうが、今思うと小さくてレトロで可愛い車、希少価値が出ているかも?

チェックポイントチャーリー近くの壁 (壁開放前の西側から撮影)


7. 東西ベルリンでの生活 [1986年~91年東ドイツ回想録]

冷戦時代、ベルリンの壁が壊れるなんてまだ夢にも思っていなかった頃。

私は東ベルリンに自分の住まいがありながら西側諸国と同じ生活を維持しようと一生懸命だったような気がする。だから、本当は東ドイツで生活していた・・とは言えないのかもしれない。
もしそこに、西ベルリンが無ければきっとそんなことに労力は使わず、東ドイツの中でできることだけで生活をし、無いものは無いで工夫し、その生活を楽しもうとしているはず。
しかし、目の前に西ベルリンという世界がある。まず自分が今までしてきたような生活を確保できる安心感を得た上でないと、ゆっくり東をみようという気持ちになれない・・それが本音だった。
だから、まず自分ひとりの足で国境を越え西ベルリンに行き、買い物ができること。
これが最初の目標だった。

自宅から歩いて国境の壁までは5分とかからなかった。
例の国境検問所を通り、西側に出ると、そこにはバス停、地下鉄の入り口、タクシー乗り場があり、クーダム繁華街へと連れて行ってくれる。地図とドイツ語の本を片手にいろいろな行き方、歩き方を覚えていった。
そうは言っても、週末ごとには夫の運転で車ごと国境を越え、一緒に西ベルリンに買出しや、サッカー観戦、観光に行ったりしていたので、なんとなくベルリン全体の土地勘は付いていった。

西ベルリンの目抜き通り通称クーダムには、デパートもいくつかあって、ヨーロッパ大陸で一番大きいとされていた「kaDeWe」カーデーヴェーには何でもあった。
それこそ食料品売り場は素晴らしく高級感があって、そこでうろうろ見ているだけでもなんだか欲求は満たされ、ここにくれば大丈夫、手に入る、と思うだけでほっとできたのも事実である。

近くのお肉屋さんでは、「ハムのように切って。」とお願いして、牛は豚の薄切りもやってくれるように頼んだ。これで、すき焼きやしゃぶしゃぶモドキもなんとかできる!

ドイツには洋服はあまりセンスの良い物がないような気がしたが、イギリスやイタリアのものや自分のサイズにあったものを見つけたときは、嬉しくてよく買ったりもした。ドイツの物はサイズが大きくて、162センチの私でもドイツ人の中に入ったら小さい方になってしまうので探すのは少し難しかった。

少し経つと、日本人のお友達もできてクーダムでいろいろなお店を見てまわったり、お茶や食事をしたり自由に動き回ることができるようになった。
ドイツは音楽の留学生さん達もたくさんいらして、そういう方たちとベルリンフィルやオパーなどに足しげく通ったりもした。
西ベルリンで美容院もいくつか行ってみて、パーマをかけるときは「日本人の髪はドイツ人の髪よりパーマがかかりやすいのでなるべく早くロットを取ってください。」とかめちゃくちゃな英語だったかドイツ語だったか忘れたが、注文もつけられるようになった。

そんな風に、初めの頃の私は東ベルリンのことより西ベルリンを知ることの方を優先し、
「鉄のカーテン」と呼ばれた国境の壁を・・・東ドイツの人が命をかけても超えようとしている壁を、
検問を受けながらも、往来することに次第に慣れ、生活の中に組み込まれていった。
当時私は20歳代だったが、西と東の差は20年くらいあるように感じ、
1日の間に20年のタイムトンネルを行ったり来たり、くぐりぬけている感覚だった。

西ベルリン 

西ベルリン

西ベルリン

ベルリンフィル












8. ドイツ語学校の友達 [1986年~91年東ドイツ回想録]

東西冷戦の象徴と言われたベルリンの壁があった頃。

私は東ベルリンのアパートから例の国境検問所・チェックポイントチャーリーを通り、毎日西ベルリンにあるドイツ語学校に通うことにした。
西ベルリンには外国人のための語学学校はたくさんあって、授業料も高いところからお手ごろのところまで探せばいろいろあったが、私は日本人駐在員妻が選ばないような、とってもお手ごろの私立のドイツ語学校を選んだ。
場所も西ベルリンへ出てしまえば、地下鉄で一度乗り換えがあるものの、15分くらいだったので
便利だった。
週5日午前中の3時間授業で、確か1ヶ月200マルクくらいだった記憶がある。確かに学校の
建物自体はあまり上等とは言いがたかったが、日本円で2万円もしなかったので毎日授業があることを考えると、本当に安い学校だったと思う。
ベルリンに到着したのは夏だったので、その2、3ヶ月経ち秋から初心者クラスに入りまず1年間を
そこで学んだ。

使い古した懐かしい教科書を探して写真をとってみた。。

20年ぶりに最初のページをめくってみる・・地図がまだ東西ドイツに分かれている。。

手前左の振り向いている白いシャツの男性がペーター・マイヤー先生。
Hannover出身で綺麗な発音、授業もわかりやすく、人間的にも優しくて、とても素晴らしい
先生だった。

春には先生が音頭をとってくださり、ちょっとした市内観光をしたり、クラスでピクニックにも行った。
ドイツにはトルコ人が多かったのだが、授業料がお安かったのもあるのかもしれないが、このクラスもトルコの人やイスラム系の人が多かった。
クラスは和気あいあいとして、活気があって、私はソングルという名の親しい主婦友達もできて毎日通うのが楽しみだった。語学は1から現地で習うのがやっぱりいいなぁと実感。

チュニジア人のおじさん(名前を忘れてしまった)、トルコ人の宿題忘れていつも先生に怒られていたイスマイール、髭がいっぱいのモスタファ、家に招待してご馳走してくれたり一番仲良くしてくれた若妻のソングル・・医者志望のイラン人姉妹のベナスとベノッシュ・・・等々・・

ライヒスターク(旧帝国議会議事堂)

学校帰りにカフェに寄り、覚えたての片言ドイツ語で一生懸命おしゃべりをした。
みんな元気に幸せに暮らしているかしら・・・


9. 友達の結婚式Hochzeit [1986年~91年東ドイツ回想録]

今からちょうど20年前のお話。
まだ東西冷戦の象徴ベルリンの壁があった時代。

この写真は東ベルリンで友人の結婚式に出席した時の1枚。

新郎は日本人、新婦は東ドイツ人である。
半年待ってやっと国から結婚の許可が下りての、結婚式だった。
日本人男性の方は夫とは同業他社の日本企業独身駐在員。
東独人女性はこれまた別の日本企業の現地雇員として働く日本語も堪能な才女・キャリアウーマンだった。

当時の東ドイツと取引のある日本企業などは同じビル(International Handels Zentrum)の中に事務所を構えている場合が多く、当時、この独身同士の若者なら出会うべきして出会ったと言ってもおかしくはないと思う。それに、お2人とも美男美女、女性の方はドイツ人らしからぬ、小柄でほっそりした美女だった。
男性の方は夫と同じ年、女性も私と同じ年である。
東ベルリンには日本人は数えるほどしか住んでいなかった。お互い同年代だったのもあり、休みの日にテニスに行ったり、一緒にドライブに行ったり食事をしたりしてとても親しくなった。
彼らは結婚の約束をしていて、役所に結婚の申請をしていたのだが、なかなか許可が下りず、
随分大変な思いをしていた。
当時の体制を考えると、結婚で国外へ出るという手段があるため国際結婚は難しい状況だったのだ。偽装結婚などもあったそうなので、早々許可が下りるものではなかった。

式の後、グランドホテル(Friedrich str.)にてお食事。

日本人男性の方は、日本から駆けつけたご両親、会社の上司ご夫妻。
東独人女性の方は、ご両親と、妹さん家族、友人。
そして私達夫婦。
内輪だけでの結婚式。
式のあとは当時東ベルリンの最新最高級のホテル「グランドホテル」で披露宴が行われた。
私達にとっても、それまでの経過を知っているだけにとても感動的な結婚式だった。
東ドイツでの結婚式に戸惑いながらもとても嬉しそうにしていらした優しそうな、実直そうなご両親の姿がとても印象的だった。

彼らは結婚後、西ベルリンに住み、当時多くの日本人家庭がそうしていたように旦那さんが東ベルリンの会社に国境を越えて毎日出勤するという形をとった。その後・・、転勤で日本での生活を経て、現在は家族4人ドイツのある街で幸せに暮らしていると聞いている。

いつか再会できる日をとても楽しみにしています。。。


10. 東で思うこと。1 [1986年~91年東ドイツ回想録]

東西分断の時代、1986年11月の東ベルリン、週末のある日。
この写真はポツダム広場方面を背にして撮ったLeipziger通り。片側3車線の大通りである。

ここを左に曲がるとFriedrich通り。そして右手に行くとすぐに壁があり、私が毎日のように出入りしていた例のチェックポイント・チャーリーがある。

普通の週末。人も車も少なく、閑散とした街である。

左手前の黄土色の古い建物の裏手に地下鉄の駅の入り口があった。そこは長い間、鉄の門で閉ざされ、人が入れないようになっている。使われていない地下鉄の入り口。
駅の名前は「Stadtmitte」。・・「街の中心」である。
この写真を撮った3年後の壁開放(1989年)後、この地下鉄が再開通するなんてまだこの時は想像だにしなかった!

この辺は東西ベルリンの境界線・壁が近くを貫いていたので、当時は閑散とした何も無い場所、そしてポツダム広場あたりまで何もなく、荒涼とした感じで、東側では人が近寄るような場所ではなかった。
しかし、現在は観光ガイド本にみる、ミッテ地区として綺麗に街を整備された。ジャンダルメン広場(シャウシュピールハウス・フランス教会・ドイツ教会)に程近く、ウンターデンリンデンブランデンブルグ門までも徒歩10分くらい。そして写真の背中側はソニーセンターなどの最先端のビルが建ち並ぶ新興地区ポツダム広場に続いている。まさに絶好の観光スポットとされ、この写真とは全く別の世界に生まれ変わっている。

私達はこの時1991年に帰国したのだが、壁開放の9年後である1998年に再度旅行でこの場所を訪れた。
まだこのLeipziger通りの、当時高級アパートと称された外国人用のこの白のアパート群は残っていた。
左側の黄土色の古い建物の、隣の白い建物が私達が住んでいたアパートである。
再訪できた嬉しさと、様変わりしている驚きと、5年間を過ごした郷愁の思いにかられて涙が溢れそうになった。  







追記※ポツダム広場:Wikipediaリンク


11. 東で思うこと。。2 [1986年~91年東ドイツ回想録]

今から20年程前。
まだベルリンの壁があった東西冷戦の時代。
iPodや携帯電話はなかったが、それでもお金さえ出せば十分すぎるくらい
何だってあった。西側諸国には。

私は東ドイツの首都、東ベルリンに約5年間住んでいたわけだが、当時、
日本人が東ベルリンに何人位住んでいたのだろうか・・定かではないのだが、
そうそうたくさんはいなかったと思う。
東ドイツ日本大使館関係の方はご家族ともども東に住んでいらっしゃる場合が
多かったと記憶している。
そして、東ベルリンに事務所を構える日本企業自体、当時は少なかったのだが、
1.住居を東ベルリンに持ち、家族ともども東に住んでいる。
2.住居を西ベルリンに持ち、ご主人が東へ毎日国境をこえて出勤してくる。
の2通りの方法があった。我家の場合は1.だった。

どちらの方法をとるのかは、それぞれの会社の方針や家族構成等々による。
お子さんの学校の事を考慮しなくてはならない場合、
日本人補習校は西ベルリンにしかなかったし、
その他の教育環境を考える場合、西に住む方が良い場合もある。

実際に1.をとっている企業は私の知っているだけでは数社だった。
我家の場合は会社の方針で、何も考えずに東に住んだのだが、
その後もどんなに大変でも、西に住んでいれば・・と考えたことは1度もなかった。
疑問にさえ思わなかった。
今思うと、若かりし頃の当時、日々すべてがものめずらしく勉強であり
与えられた環境の中でほんの少し・・
より良く、より楽に、より気持ちよく過ごしていくことしか頭にはなかったのだと思う。

そして、
もしも・・有事が起きたら・・・
そんな事を考えると、「家族はすぐに連絡が取り合える壁のどちらか一方に
一緒にいる時間が長い方がよい。」・・・とも私は感じていた。
実際、東西ベルリン間の電話回線は意図的にとても繋がり難かった。
冷たい戦争・・とは言え、戦争を全く意識しないわけではなかったのだ。

しかし、実際は夫が東でお仕事、私が西へお遊びに・・・と、
壁を隔てて東西に分かれている時間が結構長かったのだが。。。

東ベルリンのクリスマスマルクト 86年



12. ベルリンの壁について [1986年~91年東ドイツ回想録]

今日はベルリンの壁について少し書きたいと思います。

1.連合軍に占領されたドイツ

第二次世界大戦でヨーロッパ大陸の広大な領土を侵略・征服したドイツは、
結局、東からはソ連軍、西からはアメリカ・フランス・イギリス連合軍に攻め込まれた。
ヒットラー亡き後、1945年ドイツは無条件降伏。
この結果,
ドイツ北東部はソ連に占領される。→急激にソ連化される。
ドイツ北西部はイギリス・南部はアメリカ・南西部はフランスに占領される。

どこの国の軍隊によって占領されたかによって、その地域の運命が大きく変わっていく・・


上の地図:右の赤い所がベルリン市。ソ連占領下(東ドイツ)にある。
下の地図:ベルリン市拡大地図。西ベルリンの周りの黒い線にそって壁が建設された。         

2.首都ベルリンは共同管理に

ドイツ全体が4カ国によって分割占領されたことによって、エルベ川の東にあったベルリンは、 地理的にはソ連占領地域に入っていたが、首都であることを理由に4カ国の共同管理となる。
その結果,
ベルリン東側 → ソ連 ベルリン西側 → アメリカ・イギリス・フランス

           首都ベルリンはいわばドイツ全体の縮図になった。

3.東西二つのドイツ

 ベルリンばかりでなく、戦後のドイツをどうするかをめぐってソ連と西側諸国の意見が対立。

ソ連 ドイツから取れるものはなんでも取る。復興には興味がない。
西側諸国 戦争で混乱するドイツ経済をどう立て直すかを考える。

政策の違い 対立の激化 
   ソ連占領の部分は1949年東ドイツとなる。→経済復興はままならない。言論の自由なし。
   アメリカ・イギリス・フランスの占領部分は1949年西ドイツとなる。→順調に復興。

4.ベルリンの壁建設

東西ドイツの境は国境として鉄条網や地雷が設置され、東ドイツ国民が西へ行くことは容易なことではなかった。
しかし東ドイツ国内にあるベルリンへ入ることは当時、簡単だった。
東西ベルリンの境の警備にも限界があり、東ドイツ国民は東ベルリンから西ベルリンへと殺到する。
いったん西ベルリンへ入れば、鉄道や高速道路、航空機を使って西へ行くことができたからだ。

    1961年、朝目が覚めたベルリン市民は、ベルリンが壁と鉄条網で東西に分断
    されていることに気づく。

 このルートを使って脱出する市民が急増したのでこれを阻止するために東ドイツは「壁」の建設に
踏み切ったのだ。
日曜日の朝突然に家族と会えなくなる人が続出した。
東ドイツは西ベルリンを包囲する形「ベルリンの壁」を建設した。

       いわゆる「ベルリンの壁」とは東西ドイツの国境に建設
     されたのではなく、東ドイツの中に浮かぶベルリンの中を
     (ベルリン市の西側部分を壁で取り囲む形で)
東西に分断
     するものだったのである!

※自分のおさらいのつもりで少しですが簡単にまとめてみました。
 4年前に子供のために買った、週刊こどもニュースでおなじみの
 池上彰さんの「そうだったのか!現代史」を参照しました。


13. 東で思うこと。。。3 [1986年~91年東ドイツ回想録]

今の旅行ガイドブックを見てみると、ベルリン散策の見所は
旧東地区が代名詞のようになっている。
確かにブランデンブルグ門を通る目抜き通りウンターデンリンデンはパリのシャンゼリゼのような
ゴージャスな華やかさはないがどっしりとした重厚感があってかつての
ドイツ帝国の繁栄が偲ばれるような歴史の重みを感じさせる。
1989年に訪れた私の母も東の方が雰囲気がいいとお気に入りだった。


シュプレー川と歴史博物館(東ベルリン)

正直に言って、私が元気に西ベルリンの学校でドイツ語を習っていたころ
東にはあまり見向きもしなかった。
それに、うちには東のお金を普段からあまり用意してなかった。
西ベルリンで生活の全てを調達していたので必要なかったからだ。

そんな日常ではあったのだが、週末にはたまに夫とドライブで散歩もしたし、
平日も本当に時間があるとひとりで東を散策をすることもあった。
しかし、自分の住んでいる家がある街にもかかわらず、家からちょっと遠く離れると
なんとなくなんだが、不安な気持ちになったものだった。
東には一般的に言えばサービスという観念が少ない。サービスに慣れきっている
日本人である私には、情報も案内もない街は不安だった。
少ない情報をキャッチするほどまだドイツ語ができるわけではなかったし
多分英語もあまり通じないだろうと思っていた。
きっと、つたないドイツ語で話しかけても、素っ気無い態度に違いないし
一般の東独人は外国人と親しくなりたくても公然とはできないはず。
だから、こちらから接触するのも私の心のどこかで遠慮があった。
タクシーもほとんどないのでいざとなってもタクシーも使えない。
なんとも言いがたいが、暗くて、寂しい印象はぬぐえなかった・・

これは私の思い過ごしだったのか・・?
多かれ少なかれこれは当たっている部分もあると思うが、本当は親切な
国民であることはわかっていた。
外国人との密接な関係を持てないような体制なのだから、
こういう雰囲気はしかたのないことだと思ってもちろん納得していたのだが。

一人で出るときはいつも少し緊張感を持って、そしてものめずらしさ半分
おっかなびっくり歩いていたような気がする。
バック・トゥーザフューチャーと言ったら大袈裟だが、生意気にも一人
「先進国から来た人・・」みたいな気持ちにもなっていたのかもしれない。
隣の国である西ベルリンでは路線図片手に地下鉄でも市電でもバスでも縦横無尽に
平気で出かけるようになっていたのに自分の家の近くを歩く方が緊張するなんて・・・
なんかおかしな話である。


東ベルリン大聖堂、テレビ塔


ジャンダルメン広場で友人と。

しかし、それでも東ベルリンは私は大好きな街だった。
いろんな思いを抱きながら、5年の月日を季節と共にながめてきた。
街自体の雰囲気は厳かな感じでとても素晴らしかったのだ。
しっとりと静かに昔の面影がところどころに残っていた。
手が加えられ残されている美しさではなかったかもしれないが、ただ素朴に残っていた。
よく調べてみると、オペラもバレエも演奏会ももちろんちゃんと行われていたし、
世界遺産である博物館島も世界的にスケールも大きくて素晴らしかった。

まさかあともう数年先にはこの国がなくなるとは思ってもみないわけだから
今のうちに見ておこうなどと焦ったりはしていなかったのだ。


14. 1986年夏 西ドイツ ドライブ旅行  [1986年~91年東ドイツ回想録]

私がベルリンに到着してまだ日も浅い1986年7月、
西ドイツ(旧西ドイツ)にドライブ旅行に行くことになった。
まだ私の引越しの船便荷物も着いていなかったと記憶しているが、
夫が夏休みが取れたので、まず1週間の予定で行き当たりばったり出かけようということになった。
夫は学生の頃にバックパッカー同様にヨーロッパ・アメリカなどを周ったことがあるので
今回の西ドイツもいくつか同じ街を行くことにもなるのだが、私は全く初めてのドイツだった。

ドライブルートは

1日目 ベルリン→バンベルグ→ニュールンベルグ(泊)
2日目 ニュールンベルグ→ローテンブルグ→ディンケルスブール→アウグスブルグ(泊)
3日目 アウグスブルグ→フュッセン→ボーデン湖→インメンシュタット(泊)
4日目 インメンシュタット→黒い森→ハイデルベルグ(泊)
5日目 ハイデルベルグ→トリアー→モーゼル渓谷→ベルンカステル→コッヘム→モーゼル沿いの
      小さな町(泊)
6日目 エルツ城→コブレンツ→ライン川上り→ローレライ→リューデスハイム→ケルン(泊)
7日目 ケルン→カッセル→メルヘン街道→ハーメルン→ベルリン

東ベルリンからの出発なので、まずは東ドイツを高速道路で南下して
もちろん西ドイツとの国境で検問を受けることになる。西に出るとなぜだか気分が緩む・・

途中、高速道路を使って一気に走ったり、風光明媚な道を地図で探しながら街道を
ゆっくり進んだりした。気の向くままに車を止めて風景を眺めたり、お茶したり。
今のようにナビがないので助手席の私がナビゲーションしながらだったので途中
道を間違えたり所々珍道中もありながらだったが、
お陰で私はドイツの街の位置関係を随分把握することができた。
ルートも宿も全く準備せずの旅行だった。
本当のところ私は夕方になると泊まるところを確保できるのかちょっと心配だったのだが、
夫は昔も今の冷静沈着なお方。
ヨーロッパの夏は日が長い。夕方たどり着いた街でホテルを探す。でも6時までが目安。
インフォメーションだったり直接ホテルに交渉したり。6時を過ぎてしまったら直接ホテルと交渉する。
ドイツの宿はどこも清潔。小さい街にたどり着いてとてもお安くて家族的なペンションに
泊まったりもしたが、今思い返すとそこが一番良かった気もする。
そして夕食時に、ワイン飲みながら「さて明日はどこに行く?」とガイドブックと地図を眺める。
道中、私がナビを間違えて助手席で焦っていると 
「道はどこまでも続いていますよ。」・・・・・と全く慌てない夫である。

掲載に耐える写真を少し・・・


ローテンブルグの街並み


ディンケルスビュール・子供祭りの様子


フィッセン                 ノイシュバンシュタイン城

  
ハイデルベルグの街並みとネッカー川      ドイツ最古の街トリアー


モーゼル渓谷エルツ城      ケルン大聖堂

どこの町も綺麗でかわいらしくて清潔で・・自然も歴史もあって・・
いい国だなぁ。
それから5年弱を住むことになる二つのドイツが大好きになる予感がした。


15. 東西ドイツの出産 [1986年~91年東ドイツ回想録]

東ベルリン滞在は5年弱だったのだが、その真ん中あたりで私は第一子長女を出産した。

これまでにも私の東生活は度々記事にしてきたが・・
東に住んでいながら、私の生活自体は大まかに言えば、西側の人、
つまり今まで日本でしてきた生活と何ら変わりはない、ただ生活の中に
国境があるというだけだった。
もちろん、生活の中の国境があるだけ・・と言ってもそれはとても大変なことでは
あったのだが、その一番大変なそれさえ除けば・・・・
東西の国境を自由に何度でも往来できるビザがあるわけだから、
買い物もお金さえ出せばなんだって西側に行って買えるわけだし、
当然当然、言論の自由もある。
東独人が長い年月待ってやっと取れる運転免許だって西のお金さえ払えば
すぐに試験が受けさせてもらえた。
旅行だって縦横無尽。ドライブ旅行の他にも、スペイン、オーストリア、パリ、ロンドン・・・と
ここはヨーロッパとばかり西側へ向けて出かけて行った。

そんな生活だったので病院も、西側の病院ということになる。
何も考えずにそれは自然の流れだった。
そして、同じく東ベルリンに住んでいらした日本人奥様が西ベルリンの
マルチンルター病院で出産経験があるということを聞いていたので、
私達はその情報を頼りに、また他には情報源もなく1にも2にもその病院を選んだ。
又、夫の事務所の東ドイツ人の営業担当の年配女性スタッフのダンナ様が
東独の有名な心臓外科の先生だったので何かあったらいつでも言ってきて。と
心強い申し出もこんな時にはとてもありがたかった。
日本企業の現地スタッフである彼らも日本人が西側でなんでも調達している事は
知っていたし、それも当然のことだと考えていたであろう。西のものが何でも
高品質であることぐらい、政府がいくら隠していても東ドイツ人はとっくに知っていたのだ。

マルチンルター病院へ行くには、東ベルリンの家から
ベルリンの壁にある例の国境検問所チェックポイントチャーリーを抜けて西ベルリンへ出て、
そこからバスで30分くらい。タクシーでも20分ぐらいだったと思う。
病院は産婦人科が有名な病院で、そこの病院長のプロフェッサーが私の担当になってくださった。
そんなに大きな規模ではなく、住宅街の真ん中にある環境の良いこじんまりした病院。
中には小さな礼拝堂があったり、ちょっとしたお庭もあった。
私は結局、妊娠中トラブル続きで、滞在中、この病院に随分長い間お世話になることになった。

つづく。


病院の部屋。


16. 続・東西ドイツの出産 [1986年~91年東ドイツ回想録]

なんとか安定期入った頃、「今のうちにできることを」と動きすぎたせいなのか(?)
夜中に腰と横腹が痛く、眠れないほどの痛みに翌朝夫の運転で
病院にかけつけたことがあった。
プロフェッサーの診断はすぐに出た。「腎臓ですね。それに、陣痛もきています。」
まだ6ヶ月だったが即入院。
陣痛を止める点滴、5時間おきの注射、減塩食と水分摂取、安静の保持。
早産を回避するための処置もされ、この時は2~3週間の入院でなんとか無事切り抜けた。
入院中、痛みや不安はなかなか取れなかったが、看護師さんがとてもよく、明るく
面倒をみてくれた。夫以外頼れる人はいない中で
身も心も弱っているときは優しくてきぱきと働く看護師さんは
母のようでもあった。日本語だったらこんなことも聞けるし言えるのに
と思えることもいっぱいあったが、言葉が足りなくても、気持ちは
きっとわかってもらえていた。そして体のことは、大まかにしか解らない分
こうなったら、医者を心底信頼し、素直に身を預けることしかできなかった。

そんなこともあり・・・
やはり東ベルリンに住まいがあり、西ベルリンの病院に通うとなると
国境越えに対しては不安がなかったわけではなかった。
やはり壁があることで万が一のときは、東の救急車が西ベルリンの病院へ
連れて行ってくれるわけはない。
又仕事に出ている夫と連絡がとれない場合のことも考えて、
当初から早めの入院は考えていた。
そして病院側も配慮してくれ、出産予定日より1ヶ月半くらい前に入院することになった。

それから出産まで、早産の危険に備えて安静は保たなくてはならなかったが、
体調も良く、病院生活も寂しさと夕食さえがまんできれば、個室か2人部屋で設備も
充実していて常に快適だった。枕元に電話があったのが、一番ありがたかった。
病院の食事はドイツはお昼が温かいお料理で、夜は黒パンにチーズ。
これが毎日だと、お昼はそれでもバラエティーがあったが、夜はどうしてもうんざりしてくる。
毎晩見舞いに来てくれる夫が日本レストランから海苔巻きなどを買ってきてくれたりもした。
そして昼間は、西ベルリンの友人が持ってきてくれる日本の本や古い雑誌を本当にありがたく
隅から隅まで読んで過ごしていた。
それでも、入院が長くなると、「早く家に帰りたい・・・」。

安静を保つためほとんど寝て過ごしていたのだが
プロフェッサーからこれからは少しづつ歩くようにと言われ、
いよいよ出産が近づいてきた。

最後の入院から1ヶ月半くらい経ったころ。予定日の少し前のある日。
ある程度陣痛が進んできた・・・
看護師さんが「無痛分娩ですからね。」と。
私は「自然分娩がいいんですけど・・。」と言うと、
「こちらでは、ほとんどの人が無痛分娩ですよ。すごくいいのよ。」と勧めてくる。
と言うより、当然無痛分娩にすべき・・という勢い。
私は「えっ~~、あ、はい。でも~~はい。じゃぁ、そうします・・・」
本2冊とマタニティー雑誌数冊を読んだだけの知識のみ。
私は「まな板の上の鯉になろう!」(?)・・と決心した。
郷に入れば郷に従えで結局、無痛分娩で無事出産。
こんな小さな赤ちゃんを見たのも抱いたのも全く・・初めてだった。

確かに、お産は楽。その名のとおり、無痛分娩は痛くないのだ

入院が長かったお陰で、ドイツ語での産婦人科用語も覚えることができ、
看護師さんとも仲良くなり、何もわからないながらも安心してお産を終えることができた。


病院の朝食。自分である程度好きなものをチョイスできる。
私は病院の3食の中で朝食が一番喜んで食べることができた。

長くなってすみません。この後もう一回つづく。


17. 続・続 東西ドイツの出産 [1986年~91年東ドイツ回想録]


病院の窓からいつも眺めていたお庭・・・・
出産の翌日11月の後半のある日、この木々や落ち葉の上は真っ白な雪に覆われた。
入院の間にすっかり冬になっていたのだ。

いろいろあった出産だったのだが、なんとか無事だった。
病院のすべての方に感謝の気持ちでいっぱいだった・・・
10日後、退院。
さて、この退院までの間、夫は一仕事があった。
西ドイツで産まれた子供は、パスポートとビザがなければ東ドイツの我が家に
連れて帰れないのである。

以下は、数年後ドイツ駐在から本帰国し、夫が某週刊誌から取材を受け
海外勤務「とっておきの話」というコラム欄に掲載された文章を抜粋してみる。
夫がたくさんの話をした中で、記者の方が記事に取り上げたのはこの話題だった。
ただし、記者の方が文章と内容を構成しているので、ちょっと違うかな??というところも
あるのだが・・・

・・・・・・(略)、
駐在中の経験で忘れられないのは、【ベルリンの壁】がまだ存在していた’88年に
妻が出産
したことです。分断国家であったドイツの「壁の厚さ」を身をもって痛感することに
なったからです。・・・・・・(略)万が一、自宅で産気づいたときでも、東ベルリンの救急車は
到着するまでに1時間近くかかります。これでは恐くて妻を寝かせておくことができません。
そこで、出産を控えた妻はかなり早くから、ビザを取って西ベルリンの病院に入院するのです。
・・・・・・(略)・・・・無事出産。ここまではスムーズに行きました。
ところが、東ドイツ側が子の入国を許可しないと言ってきたのです。
西ベルリンの役所で作成した「出生届」を持って当局に行ったところ、
「あなたと奥さんのパスポートだけでは、娘さんのビザは発行できない。
まず結婚証明書を提出してください。」結婚証明書といっても、西ベルリンですぐに
手に入るものではありません。日本から戸籍謄本をとりよせなければならず、
これでは何日かかるかわからない。何度も足を運んで交渉してみたのですが、
どうしても認めてくれません。結局日本大使館に泣きついて、戸籍謄本の提出は
免除となりましたが、おかげで妻とわが子は10日間も病院で足止めを食らいました。
その間、私はオロオロと、何度も東と西を行ったり来たりする羽目に陥りました。
二つの体制の違う国の間であわてた経験は両独が統一された今では、
貴重な経験と言えるでしょうね。

久しぶりに引っ張り出して読んでみたがけっこう脚色が入っている。
「?」・・と思えるところもあるのだが、読む方にとっては面白いのかもしれない。

とりあえず、完。

 


18. となりのシュテファン [1986年~91年東ドイツ回想録]

冷戦時代の東ベルリン。
話はベルリンの壁崩壊直前の1989年ごろ・・・
外国人用のアパートに住んでいた私達はアパートの周りに常に銃を持った東独の警察官の警備があり常に監視されていた。こんな風に言うと窮屈な感じだが、実際はある意味治安の面では守れれているということなので、逆に安心して住むことができたと思う。
怖そうに立っている秘密警察官でも顔を合わせれば、こちらから挨拶すれば普通に挨拶を交わしてくれる。そんな時、瞳の奥の本来の優しさを私はいつも見逃さなかったものだ。

私達の家は9階だった。同じ階に4つのドアがあって、うちはエレベーターを降りて、
左手の突き当たりだった。うちの隣の家には東ドイツ人の一家が住んでいた。
外国人用のアパートのはずなのだが、このように見張り役として所々に普通の東独人家族を住まわせていたのだ。
見張り役と言っても何をするわけでもない。ただそこに住んでいるだけの役割らしい。
現に何も言ってきたこともないし、特に見張っている様子もない。
ただ、エレベーター前の廊下やゴミ捨てなどで顔を合わせることは度々だったが、
にこやかに、友好的に挨拶を交わすだけである。立ち話もしないし、余計な詮索は一切無しだった。
挨拶以上の言葉は交わさないお隣さんだったが、見ていると、家族構成は両親と小学生の男の子2人の4人家族のようである。もちろん共稼ぎ。服装も生活レベルも東独のごく普通の一般家庭という感じである。

我家に娘が生まれて、やっと春になり少し暖かい陽射しもさすようになると、私はよく乳母車で
家の周りを散歩するようになった。
そんな行き帰りに隣の家の男の子達に会うと娘をあやしてくれたり、ちょっかい出してくれたりするようになった。
ある日、いつものように廊下で娘と遊んでくれていたので
「うちで遊ぶ??」と誘うと、二人は屈託なく、喜んであがりこんできた。
うちにあるものを物珍しそうに見たり使ったりする彼ら。とても面白い男の子たちで
うちにあるものを使って自分達で遊びを考案して娘をあやしたり遊んだりしてくれた。
彼らのご両親も子供のことだから・・ということだろうが、特に何も言ってはこない。


写真右上がアパートの玄関前。こんな広い歩道が続いていて1階は店舗が入っていた。花壇もある。

彼らが何度か家に遊びに来るようになって・・・
私は兄のシュテファンに、どうしても聞いてみたいことを、遂に聞いてみることにした。
果たしてこんな質問をしていいのだろうかと・・すごく悩みながら・・ごめんね・・
「西にはこんなに美味しいお菓子もジュースも、おもちゃも何でもあるのよ。行ってみたいと思わない??」

私はなんと意地悪な隣のオバサン・・
彼らが自由自在には西に行けないのを知っていて、そんな酷な質問をするなんて・・・
でも、でも、でも、本当はみんなどう思っているの??
ここで本音を言っても、私は誰にも告げ口しないのよ!
どうしても、納得できない、腑に落ちない・・・そんな自分の自由主義の国で育ってきた
価値観のもとで聞かずにはいられなかったのだ。

そして、まだほんの小さなその小学4年生くらいのシュテファンが返してきた答に私はまた、
愕然とし、そして徹底した思想教育のすごさを垣間見て驚いた。
「西は犯罪が多くて、失業率も高い。だから僕は行きたくない。」

そうか・・・そうよね。。。
迷うことなく、こうさらっと答えたシュテファンは又、日本製のラジカセのマイクを持って
楽しそうに歌いだした。


nice!(29)  コメント(46) 

19. ドイツ ベルリン 壁のある街 [1986年~91年東ドイツ回想録]

ドイツ・ベルリン・・・ベルリンの壁(ベルリンの壁について簡単にまとめた記事)
壁のある街・・・壁のあった街。

壁の建設が始まった年・・・1961
壁が崩壊した年・・・1989
西ベルリンを取り囲む壁の長さ・・・約155km
そのうち、壁の東西ベルリンの境の長さ・・・約43km
壁の高さ・・・約3m~4m
壁を越えようとして失敗、死亡者・・・約230
壁を越えようとして失敗、逮捕者・・・約3000
壁を越えること成功、亡命者・・・約5000


20年前に買ったポストカード。すべて西ベルリンで買ったもの。
(すべて西側から撮影されたもの)



 
西側から撮影されたブランデンブルグ門と壁。
ベルリンの壁、東側では夜間は街灯が周囲を照らし、監視塔だけで約300ヶ所。
監視兵は約14000人。番犬は600頭。東ドイツがいかに必死になって自国民の逃亡を食い止めようとしていたかがわかる。西側からはこのように写真を撮ったり、壁まで近づいたりは簡単にできたが、東側でははまずそのようなことはできなかった。壁に向かって走ろうなどしたならば国境警備兵に撃たれかもしれないのだ。


 
実際には、場所にもよるが、壁の向こうの東ベルリン側には、フェンス・パトロール用舗装道路・溝・足跡のつく砂地・番犬・鉄条網・亡命を探知するケーブル・金網・東側のコンクリートの壁など数十メートルの分離帯があり、東からの逃亡する者は監視兵に容赦なく射殺された。 要するに、幅数十メートルに及ぶ二重の壁が西ベルリンを取り囲んでいたことになる。


 
これは西側から見た国境検問所(西側の呼び名チェックポイントチャーリー)。
国家の重要機密施設である国境検問所の東側からの写真は当然あるはずがない。
ある日、向こう側(東側)から車で強行突破事件が起こり、その後、この検問所内の車線も
蛇行するように変えられた。
時々、このような亡命者の突破事件が起こるので、真っ直ぐだった車線は度々変更された。



左上、及び右下の写真に見える手前の小さな小屋。アメリカの国旗が掲げられている。
それが実は西側の検問所。これをチェックポイントチャーリーという。
ここでは、もちろんノーチェック。



西ベルリン側に面した壁。このように落書きされているのはもちろん西側である。



チェックポイントチャーリー跡のすぐ近くに「チャックポイントチャーリー博物館」というのがある。ここには東ドイツの人たちが、どのように西側に逃げたのか、様々な手段が実物大の模型を使って紹介されている。壁の下にトンネルを掘って逃げた人、トラバント(東の自動車)の後部座席の下に隠れて逃げた人、また、気球にのって空から逃げた人の記録映画・・・等々、いろいろなアイデアで自由を求めて西側へ行こうとした人々の熱い想いが伝わってくる博物館である。






次回、私の体験した「ベルリンの壁崩壊のとき」を綴りたいと思います。
どうか、お付き合いください。

 


nice!(28)  コメント(20) 

20. ドイツ ベルリンの壁 開放のとき [1986年~91年東ドイツ回想録]

それは、1989年11月9日の夜遅くのことだった。 
歴史の扉が静かに開かれた・・・

周りの東欧諸国が少しづつ民主化を進めている中で、それに遅れをとっていた東ドイツ。
国内のあちこちで反政府デモが起こるようになっていた・・・でも、
まさか、そんなことがこの日に起こるなんて、私だけじゃなく、そこに歩いているドイツ人だって
思っていなかったと思う。

一夜明けた、11月10日。
夫は前日から西ドイツのデュッセルドルフに出張に行っていて、東ベルリンの家には
私と娘だけだった。
夫もいないし、朝もゆっくり。テレビ画面には日本から送ってもらって大事に大事に何度も観ている
NHK「おかあさんと一緒」のビデオが流れている。
ドイツのニュースなど昨夜から一度もつけていなかった。
大型高層アパートの9階(日本式10階)の部屋では下の喧騒など聞こえるはずもない。

1989年11月10日午前  東ベルリンLeipziger Str.


よく目を凝らしてご覧ください。これは我家のバルコニーから写した写真ですが、通りを渡った向こう側の歩道に人々の列が確認できるでしょうか。

午前中、何時だったか、リビング側の窓を何気なく・・・
本当に何気なく、窓の外に視線をやると・・なんだかいつもより人も車も多い気配がする・・・
何か異変を感じた。
「えっ?なんだろう・・?」こんな所に人がこんなに集まることは今までまずなかった。
バルコニーへ飛び出して、よく下を見下ろしてみると、
片側3車線の大きなLeipziger Str.が初めて見る車の大渋滞。
道の両端には車がぎっしり駐車してあり、
通りの向こう側の歩道には人々の長蛇の列ができている。
そして、その歩道に広がった人々の列は建物の角をまがっており、向かう先には、
西ベルリンへ出ることができる国境検問所・(西側の呼び名・チェックポイントチャーリー)
あるだけだ。
車も西の方面へ、国境検問所(チェックポイントチャーリー)へ向かう車道だけが大渋滞になっている。


見づらいので、人々の列に沿って→を付けました。
→の方向に建物の角を曲がると、数十メートルで国境検問所(チェックポイントチャーリー)があり、
それを超えると、そこは西ベルリンです。

東の住民が国境へ向かう・・・・??
「えっ? なに? 」「えっ?? うそうそ?」「ま さ か・・ね・・!?」
私は本当に独り言のようにブツブツ、そして心の中でこう叫んでいた。
いてもたっても、どうしていいかわからなくなった。
「もしかして、すごい事が起きている・・・!!」
普段からドイツのテレビを情報源にできるほど力のない私は、そのせいなのか、
なぜかテレビをドイツのニュース番組に変えようという案はその時全く思いつかず、
下へ降りて事実を確かめにいかなくては・・と咄嗟に思った。しかし、
娘を抱いて、降りていって、もし何か危険なことでもおこっては逃げるに逃げられない。

私は娘が午前のお昼寝をするのを待って、家を飛び出した。カメラをも持たずに。
ただ自分の目で確認するだけ・・ただそれだけの想いだった。
幸いにも、娘はとても育てやすく、昼寝もたっぷり、目覚めても一人で機嫌よくベッドの中で
遊んでいる子だった。
ちょっとの間だけ・・!!
私はエレベーターを降り、アパートの前のLeipziger通りを急いで横断、向こう側の歩道に渡った。
大きな歩道に広がった列の先端を突き止めようと走った・・・

「やっぱり!」・・・先端は私がいつも通っている、国境検問所(チェックポイントチャーリー)に
吸い込まれていた。
なんだか身体全体が震えるような感覚で、並んでいる人々を見ながら、
見えている一番先頭の人に駆け寄った。
「何が起こったんですか??」と問いかけた。
「国境が開放されたのよ!!」
人々の顔を見て、私は表現しようのないたまらない気持ちになった。
そしてほんの少しの間その場に立ちすくんでいた・・
意外と静かで、整然としていた。
乳母車を押した家族連れ。若い友達どうし。おじいさんもおばあさんも。
11月の寒空の中、皆いろいろな想いを抱いて、その時を並んで待っている。
信じられない光景を目の前にして、歴史が動いたんだという感動でいっぱいになった。
どのくらいの間だったか・・1、2分のことだったか・・
私は猛ダッシュで家へと走った。アパートの下までは走ったら2分くらいである。
それでも、行って帰って10分か、いやもうちょっと・・留守をしてしまった。
娘の寝顔を見てほっとすると、電話が鳴った。

デュッセルドルフにいる夫からだった。「大丈夫??」第一声だった。
普段冷静な夫も、早口、緊迫した口調だった。
こんな歴史的なことが起こるときは、何か起こってもおかしくはない。
「うん、大丈夫。何も起こってない。でも、下がすごい人なの!!みんなチェックポイントに
向かっているの!すごいよ。壁が開いたのよ!!!」
私は興奮がいつまでも冷めやらなかった。

今からちょうど18年前。
銃声ひとつ響くことなく、
民衆の力で
静かに、平和の中で・・・
まさに、私の目の前で・・・
冷戦の象徴であるベルリンの壁が崩れ落ちた。
「ベルリンの壁崩壊」は、その後の「冷戦の終結への始まり」となっていった。

 


21. 壁開放後、国境警察のひと [1986年~91年東ドイツ回想録]

ベルリンの壁(Wikipediaにリンクします)

今から20年程も前のおはなし。
突然の壁の崩壊・・・
今まで何回か記事にしてきたが、私達の生活は壁と共にあったと言っても過言ではないほど
壁を通過し、壁で待たされ、壁に憤慨し、壁を考え、壁を想い、壁を意識してきた。
(なぜ東ベルリンに住んでいたかはこちら

東ドイツ人の立場とは全く違う形ではあったが、生活の一部となっていたことは間違いない。
そして夫婦共に愚痴をこぼしたことはなかったが、
それが私達の生活をハードなものとしていたこともまぎれもない事実であった。

東に住居がありながら、生活物資、娯楽、学校、病院・・全てを西で調達していた私達の
パスポートは国境をまたぐたびに押されるスタンプであふれかえっていった。
パスポートは東独日本大使館で増冊され、それでもページがなくなると、新しく作り変える。

出入国のDDR(東ドイツ)のスタンプが所狭しと押される。
スタンプは日付と検問所の通りの名前が入っている。<Freidrichstr Zimmerstr>

しかし、
壁が開放されたのだから、もうこんな手間はなくなったのだ・・・
時に観光客で混んでいる検問所で待たされることも、もうないのだ・・・
ものすごい安堵感で心もスーと軽くなっていったのを覚えている。

壁開放からほどなくして、検問所があった国境には国境警察官もいなくなり、
国境施設だけが取り残された単なる一つの「通り」と化していった。

壁開放からしばらく経ったある日、
家のそばを歩いていると、パスポートコントロールで勤務していた国境警察官の人が
奥さんと一緒に散歩をしているところに行き会ったことがあった。
私と気付いてにこにこしている・・・ほんの少し戸惑った感じだったが、「久しぶり・・!」と挨拶。

私は毎日のように国境を往来していた時期もあり、パスポートコントロールの国境警察の
幾人かの人達とは顔馴染みになったいた。
ある意味、顔パスというのだろうか、もちろんパスはさせてもらえないが、
観光客でごった返している時は私を見つけると列の一番前に来いと目や手で合図してくれて
先に通してくれる配慮をしてくれた。
私はこれでどんなに助かったことだろうか・・・

ベルリンに来て一番初め、夫に
「国境で待たされても、どんなに検査を受けても、文句を言ったりしてはだめ。
彼らはそれが仕事なのだからイライラしてもしかたない。とにかくいつも笑顔で挨拶をするように。」
と教えられ、それを忠実に守ってきたそのお陰だったのだ。

もちろん検問所の中では余分な話などしたことはない。どの警察官も仏頂面で
笑顔を返してもらうことなどあり得ない。
でも道でこんな風に行き会って、「お元気ですか?」なんて声がかけられるなんて・・!
時代が移り変わっていくことを実感として深くかみしめる出来事だった。

しかし、彼らはこれからどのように生きていくのだろう。仕事はあるのだろうか・・?
そんな事を心配しながら・・それでもその日は
普通のおじさんに見えた、かつての国境警察官の優しい笑顔が脳裏に焼きついて
いつまでも嬉しい気持ちでいっぱいだった。


22. ベルリンの壁開放後 人々の歓喜 [1986年~91年東ドイツ回想録]

1989年11月9日 ベルリンの壁開放

もう随分昔のお話なのだが・・
世界中に流されたベルリンの壁開放のドイツ人の歓喜の様子の映像を覚えいらっしゃるだろうか・・

そのおよそ数日後の週末、国境検問所(Friedrich Str.)チェックポイントチャーリーの様子。
西ベルリン側から撮影した写真。(車の中から撮影。)

東ドイツ車のトラバント。皆、西ベルリンを見てきて帰るところなのだろう。

下の写真はこれから東ベルリンを見に行く西ドイツ人や、西ベルリンへ遊びに行っていて
東へ帰る東ドイツ人で歩く人用の通路がある建物も、人があふれて大混雑になっている。
この時はまだパスポートくらいは見せていたかもしれないが、ほとんどノーチェックに等しい
状態だったと思う。
この建物の中は人が通れる通路は1本。行きも帰りもその1本の通路を使う。
しかも人が一人づつしか通れないようにくなっている。
パスポートコントロールの窓口もどんなに混雑しようとも一つしかなかったことからも
いかにそれまで国境を頑なに守ってきたかがよくわかる。
建物は一見広く見えるかもしれないが、多くの扉は締め切りになっていて、
まるでお化け屋敷の通路のようだと言えばちょっと想像がつくだろうか。
これだけの人が詰め掛けると、いくらノーチェックでも通るのに時間がかかってもしかたがない。

私達がいつも通っていたこの国境の丁度真下には、かつて東西を通している地下鉄の
使われていない線路があった。現在はもちろんU6として走っているわけだが、
東西が分断されていた時代には国境近くの東側の地下鉄の入り口は鉄の門で
硬く閉ざされていて立ち入ることはできなかった。
そして、壁が開放してしばらくすると、地下鉄の門も開けられ、大きな工事もなくいとも簡単に路線を再び開通させた。
塞がれることがなかった線路のトンネルの中には、40余年前の空気がそのまま閉じ込められているようだった。
目をつぶると、東西分断の悲しい歴史をたどる前の活気ある人々が縦横無尽にこの電車に乗って
自由を謳歌していたのだろうと、見たこともない昔を想像させられた。
私は自宅のアパートのすぐそばにある最寄の地下鉄の駅「Stadtmitte」から電車に乗り、
わずか一駅西側のKochStraß駅に着いたとき、
体制の違う国同士だったが、やっぱり一つの街だったのではないか!・・と
わかりきっていた事を改めて、むざむざと思い知らされたのだった。
亡命しようとして命を落とした人、なんとか乗り越えようとした人々の気持ち・・
それまでの私の国境の往来は何だったのだろう・・・

いろいろなことが壁開放と共に怒涛のように自由へと流れ出していった。

壁開放のドイツ人の喜びを、少しばかりでも日本人の私なりに感じる日々を過ごしていた。


nice!(29)  コメント(15)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

23. ベルリンの壁のカケラ [1986年~91年東ドイツ回想録]

1989年11月9日のベルリンの壁解放から数か月・・・・・・
東西ベルリン市民、そしてベルリンを訪れる世界中の人々の手によって実際に壁が
壊されていった。

テレビの映像でも壁の上に上って喜ぶ者、つるはしで壁を壊す者・・
当時さまざまな歓喜の様子が映し出されていた。
壁の周辺では観光客相手に、ノミとカナヅチを貸し出している商売人も現われて・・・
私達も金槌を振り上げて壁を壊してきた。
未来の平和を願って・・・

西側の壁がもうほとんど上の方まで削り取られている。
この写真を撮った位置は西ベルリンの覘き台の上から。
ここに観光客が東側を覗くための2メートルくらいの階段付きの台があった。
そこから、すでに機能していないかつてのチェックポイントチャーリーを臨む。

壁の上に立つ警察官・・もう警察官ものんびりムード。これは東側から撮影。

ブランデンブルグ門周辺。(西側から撮影)

削り取られた壁・・・壁に上る人々。

ポツダマー広場周辺。今は巨大なビルが立ち並ぶ先端スポットになり変っている。


観光客相手にこんな壁のかけらを売っている若者がたくさんいた。
一応、本物の壁ですよ・・という証明書がついている。何の公的なものではないが・・
私が買った壁のカケラ・・・

今だにこの壁のカケラを見ると、当時の様子が蘇ってくる・・


nice!(32)  コメント(23)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

24. ベルリンの壁解放後のクリスマス [1986年~91年東ドイツ回想録]

1989年年11月9日のベルリンの壁解放

・・・それから1ヶ月半後・・
その年のクリスマスの頃の様子。
週末になると、かつて壁のあった象徴的な場所には東ドイツ国民がたくさん集まってきた。

それまでは東側からは近づくこともできなかったブランデンブルグ門。
壁が崩れてからは人が通ることができるようになった。
このフェンスを越えることができるなんて・・数か月前までは皆夢にも思っていなかったであろう。
東側から見たブランデンブルグ門。(西側から見た門の様子は前回の記事に写真掲載)


大勢の人々が門の下をくぐる・・・

門の柱はとても大きい・・

そして門をくぐって向こう側からも写真をとる。

さぁ、家に帰ろう・・

ウンターデンリンデン通り。東側を向いて撮影。

この時期のベルリンはあっという間に日が暮れて寒くなるのだ。

この年のクリスマス・・なんだか平和な穏やかな空気が本当に流れていた。
不思議だが、街を歩いていても日本人の私達さえ感じていた何とも言い難いちょっとした
緊張感のようなものが全くなくなっていた。

 

この2年前のまだ東西分断の時代のクリスマスマルクトの写真を・・。

東ベルリンのクリスマスマルクトの様子。お店の作りがちょっと寂しい感じ・・(Alexanderpl.)
      

 
西ベルリンのクリスマスマルクトの様子。(kurfürstendamm)
      

      


nice!(25)  コメント(20)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

25. ドイツ統一の日 [1986年~91年東ドイツ回想録]

1989年11月9日のベルリンの壁崩壊の後・・・
翌年の1990年10月3日
東ドイツが西ドイツに吸収される形で、2つのドイツはひとつの国へと統一を果たした。
第二次世界大戦後に分断されて45年後のことだった。

ドイツ統一の日、10月3日の夕暮れ。
ブランデンブルグ門へと続く大通りウンターデンリンデンは歩行者天国となり、
統一を祝う市民でいっぱいになった。喜びを分かち合うように、静かに穏やかに
この目抜き通りをそぞろ歩いた。


                                   Unter den Linden (旧東ベルリン)
                         (追記:20年前の写真集 「BERLIN」PARKLANDより) 

ブランデンブルグ門をバックに各国の放送局がニュース中継をしていたり、
ベルリンの壁のカケラを売る若者や、統一を記念したイラスト入りのTシャツを売る人、
絵葉書を売る人などもいて、平和な光景がそこにはあった。

駐在中にこんな風にドイツが・・世界が変わっていくなんて思ってもみなかった。
この後、数ヵ月後には日本への本帰国が決まった私達も
先行きの問題は別として、
冷戦が終止符を打ったという安らかな気持ちで
そこを歩いているドイツ人と同じように、
この日、戦前ベルリンのシャンゼリゼと言われたかつての目抜き通りウンターデンリンデンを
ゆっくりとゆっくりと・・歩いていたのだった。
「ドイツ統一の日」・・歴史の1ページとして忘れないように。



1986年~91年東ドイツ回想録 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。