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7. 東西ベルリンでの生活 [1986年~91年東ドイツ回想録]

冷戦時代、ベルリンの壁が壊れるなんてまだ夢にも思っていなかった頃。

私は東ベルリンに自分の住まいがありながら西側諸国と同じ生活を維持しようと一生懸命だったような気がする。だから、本当は東ドイツで生活していた・・とは言えないのかもしれない。
もしそこに、西ベルリンが無ければきっとそんなことに労力は使わず、東ドイツの中でできることだけで生活をし、無いものは無いで工夫し、その生活を楽しもうとしているはず。
しかし、目の前に西ベルリンという世界がある。まず自分が今までしてきたような生活を確保できる安心感を得た上でないと、ゆっくり東をみようという気持ちになれない・・それが本音だった。
だから、まず自分ひとりの足で国境を越え西ベルリンに行き、買い物ができること。
これが最初の目標だった。

自宅から歩いて国境の壁までは5分とかからなかった。
例の国境検問所を通り、西側に出ると、そこにはバス停、地下鉄の入り口、タクシー乗り場があり、クーダム繁華街へと連れて行ってくれる。地図とドイツ語の本を片手にいろいろな行き方、歩き方を覚えていった。
そうは言っても、週末ごとには夫の運転で車ごと国境を越え、一緒に西ベルリンに買出しや、サッカー観戦、観光に行ったりしていたので、なんとなくベルリン全体の土地勘は付いていった。

西ベルリンの目抜き通り通称クーダムには、デパートもいくつかあって、ヨーロッパ大陸で一番大きいとされていた「kaDeWe」カーデーヴェーには何でもあった。
それこそ食料品売り場は素晴らしく高級感があって、そこでうろうろ見ているだけでもなんだか欲求は満たされ、ここにくれば大丈夫、手に入る、と思うだけでほっとできたのも事実である。

近くのお肉屋さんでは、「ハムのように切って。」とお願いして、牛は豚の薄切りもやってくれるように頼んだ。これで、すき焼きやしゃぶしゃぶモドキもなんとかできる!

ドイツには洋服はあまりセンスの良い物がないような気がしたが、イギリスやイタリアのものや自分のサイズにあったものを見つけたときは、嬉しくてよく買ったりもした。ドイツの物はサイズが大きくて、162センチの私でもドイツ人の中に入ったら小さい方になってしまうので探すのは少し難しかった。

少し経つと、日本人のお友達もできてクーダムでいろいろなお店を見てまわったり、お茶や食事をしたり自由に動き回ることができるようになった。
ドイツは音楽の留学生さん達もたくさんいらして、そういう方たちとベルリンフィルやオパーなどに足しげく通ったりもした。
西ベルリンで美容院もいくつか行ってみて、パーマをかけるときは「日本人の髪はドイツ人の髪よりパーマがかかりやすいのでなるべく早くロットを取ってください。」とかめちゃくちゃな英語だったかドイツ語だったか忘れたが、注文もつけられるようになった。

そんな風に、初めの頃の私は東ベルリンのことより西ベルリンを知ることの方を優先し、
「鉄のカーテン」と呼ばれた国境の壁を・・・東ドイツの人が命をかけても超えようとしている壁を、
検問を受けながらも、往来することに次第に慣れ、生活の中に組み込まれていった。
当時私は20歳代だったが、西と東の差は20年くらいあるように感じ、
1日の間に20年のタイムトンネルを行ったり来たり、くぐりぬけている感覚だった。

西ベルリン 

西ベルリン

西ベルリン

ベルリンフィル












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