SSブログ

世界報道写真展2007 [日々のなにげないコト]

WORLD PRESS PHOTO

梅雨も明け昨日はとても蒸し暑い日だった。
出かけついでだったのだが、恵比寿にある東京都写真美術館で開かれている
世界報道写真展2007に行ってきた。
これはオランダの世界報道写真財団が毎年主催する報道写真コンテストでの入賞作品で
構成された世界報道写真展である。
第50回目の今年、応募者は124カ国4460人だったそうである。
一つ一つの写真をじっくり見てまわった。
そこには地球上で起きたあらゆる事実が並んでいて、目を伏せたくなるような写真もあった。
写真は時には文章より生々しく真実を訴え、激しく人の心に迫るものがある。
写真家たちが切り取った一瞬のメッセージを受け止めるには、
歴史的背景、現実の絡み合い、人々の感情・・そういったものを深く知る必要がある。
自分には知識不足もあり報道カメラマンが現場で直面した一瞬の
写真の裏側に潜むメッセージが十分受け止めることはできなかったと思うが、
昨年はこんなことが起こった・・とか、こんな問題もあった・・とか振り返ることができた。
もっと世界の報道にも目を向けなければと痛感させられた日だった。








六本木ヒルズクラブ にて [日々のなにげないコト]

六本木ヒルズクラブで、知り合いの方が催したプライベートパーティーがあった。
夜8時半のスタート、出席者は50人くらいだっただろうか。

ピアニストの後藤泉さんの素敵なクラッシックコンサートとトークショー。
主催者側が我々出席者に贈ってくださったイベントである。
ファミリーコンサートなので誰でも聞いたことのある有名な曲ばかりを演奏してくださった。
最後の演目はrinoが聞きたいと思っていたリストのラ・カンパネラだった。ブラボー!

それから、美味しいワインとお料理。
ヒルズ51階からのすばらしい夜景・・・
そして、メインは主催者である海外へお引越しをされる知り合い一家の、ご挨拶と
パフォーマンスなどがありとても温かいパーティーだった。

夏の夜、ちょっといつもと違ってすまして出かけたrino。
光沢のある紺のワンピース、胸元はちょっとフリルのデザイン・・

ヒルズから眺める都会にちりばめられた、ちょっと冷たそうな高貴な輝きを見ていたら、
普段は味わえないちょっと優雅な気分・・ほんのひと時暑さも忘れられた。
一緒に出席した高校生の息子がなんだか急に大人びて見えた。




写真がうまく撮れなかったので、こちらから写真をアップしました。
もう少し夜景をご覧になる場合、こちらで・・・↓

http://www.yakei-kabegami.com/pickup/13-tokyo-roppongihills/

後藤泉さん 公式サイト 
http://www.izumi-piano.com


6. 東ドイツの贅沢事情 [1986年~91年東ドイツ回想録]

壁のあった時代とは言え、今から20年くらい前の日本を思い出すと、もうとっくのとうに何でもあふれかえっている時代が来て久しい頃である。
そんな日本からいきなり東ドイツ住むことになると、驚かされることがあった。

東独では子供が産まれるとすぐに車の免許をとる申請と車を買う予約をするというのである。
それは親のためではない。産まれたその赤ちゃんが大人なった時に、車を使えるようにするためである。
用意周到な親はそんな風に計らうのだが、それもなくいざ、大人になって車を買おうと思っても15年くらいは待たされたそうなのだ。15年って・・・そんなに・・。
それだけ、贅沢品であった車を生産する材料がないということだったのだろう。
電話もそんな贅沢品だった。我が家には外国人用のアパートで電話はあったが、普通のドイツ人の家でも電話のない家庭はたくさんあった。
滞在3年目くらいからうちにドイツ語の家庭教師の女性(東独人)に来てもらうことになったが彼女の家には電話はなかったので、いつも次の約束を必ずして別れた。何か変更があった場合は彼女は公衆電話から電話をかけてきたが、私がどうしても日時の変更をしなければならなかった時は玄関に張り紙をして出かけたことがあった。とても申し訳なく、また不便に思えた。
こんなことは何十年も前ならどこの国もこんな世界だったのだろうし、現に今もそういう事情の国は
いくらでもある。
そういう事がわかっていてもいざ、自分が時代をタイムスリップするような経験は驚きの何ものでもなかった。

当時の東独の主流の車、トラバント。大きなドイツ人がとっても小さな今にも壊れそうな車にぎゅうぎゅうに乗っている光景はもうあまり見られないのだろうが、今思うと小さくてレトロで可愛い車、希少価値が出ているかも?

チェックポイントチャーリー近くの壁 (壁開放前の西側から撮影)


ほんの少し・・ [日々のなにげないコト]

残暑お見舞い申し上げます。

朝から暑くて・・・
皆様お元気でお過ごしですか・・・


 

 

ときどき、通る道・・


 

 

夏を感じると子供の頃を思い出す・・


 

 

やっと見つけた止まり木で一生懸命蝉が鳴いている・・・


 

 

ほんの少しがんばろうっと!・・・自分なりでいいから・・


 

 

いろんな事がある・・・
皆様、お身体いたわって・・無理をしないで。


 

 

そして、ちょっとだけ・・ほんの少し進もう。私なり。




今日の夕飯は・・・ [日々のなにげないコト]

我が家の食卓にはたびたび鰹が登場する。
rinoの両親は高知県出身なので自然と子供の頃から食べ親しんでいたものである。。

少しくせもあるのでいろいろな薬味と一緒に食べられる。お刺身として食べたり、少し火をとおしたり。洋風のソース、または大根おろしや葱、しょうが、ミョウガ・・・。ゴマ醤油マヨネーズ、キムチなどの韓国風のたれ等々・・いろいろ工夫してきた。
でも、やっぱり美味しいと思うのは昔からrinoの母がいつも作っているお惣菜「鰹のたたき」である。

本来は串にさし直火で皮目をさっと焼くのだが、今日はフライパンにオリーブオイルを少したらして表面をさっと焼いてしまう。氷水でさっとしめてお酒少々をふりかけておく。

たくさんの玉ねぎのスライスと大葉もたくさん。上にのせる。
タレはにんにくのすりおろしと醤油、お酢を半々くらいの量で。
食卓に出す直前にタレをすべてかけて味をなじませる。

鰹の並べ方はこんな風にして。味がなじみやすい。
タレになじんだ大量の玉ねぎもおかずになる。

超~スピード料理で簡単、そしてやっぱりコレがおいしい・・


7. 東西ベルリンでの生活 [1986年~91年東ドイツ回想録]

冷戦時代、ベルリンの壁が壊れるなんてまだ夢にも思っていなかった頃。

私は東ベルリンに自分の住まいがありながら西側諸国と同じ生活を維持しようと一生懸命だったような気がする。だから、本当は東ドイツで生活していた・・とは言えないのかもしれない。
もしそこに、西ベルリンが無ければきっとそんなことに労力は使わず、東ドイツの中でできることだけで生活をし、無いものは無いで工夫し、その生活を楽しもうとしているはず。
しかし、目の前に西ベルリンという世界がある。まず自分が今までしてきたような生活を確保できる安心感を得た上でないと、ゆっくり東をみようという気持ちになれない・・それが本音だった。
だから、まず自分ひとりの足で国境を越え西ベルリンに行き、買い物ができること。
これが最初の目標だった。

自宅から歩いて国境の壁までは5分とかからなかった。
例の国境検問所を通り、西側に出ると、そこにはバス停、地下鉄の入り口、タクシー乗り場があり、クーダム繁華街へと連れて行ってくれる。地図とドイツ語の本を片手にいろいろな行き方、歩き方を覚えていった。
そうは言っても、週末ごとには夫の運転で車ごと国境を越え、一緒に西ベルリンに買出しや、サッカー観戦、観光に行ったりしていたので、なんとなくベルリン全体の土地勘は付いていった。

西ベルリンの目抜き通り通称クーダムには、デパートもいくつかあって、ヨーロッパ大陸で一番大きいとされていた「kaDeWe」カーデーヴェーには何でもあった。
それこそ食料品売り場は素晴らしく高級感があって、そこでうろうろ見ているだけでもなんだか欲求は満たされ、ここにくれば大丈夫、手に入る、と思うだけでほっとできたのも事実である。

近くのお肉屋さんでは、「ハムのように切って。」とお願いして、牛は豚の薄切りもやってくれるように頼んだ。これで、すき焼きやしゃぶしゃぶモドキもなんとかできる!

ドイツには洋服はあまりセンスの良い物がないような気がしたが、イギリスやイタリアのものや自分のサイズにあったものを見つけたときは、嬉しくてよく買ったりもした。ドイツの物はサイズが大きくて、162センチの私でもドイツ人の中に入ったら小さい方になってしまうので探すのは少し難しかった。

少し経つと、日本人のお友達もできてクーダムでいろいろなお店を見てまわったり、お茶や食事をしたり自由に動き回ることができるようになった。
ドイツは音楽の留学生さん達もたくさんいらして、そういう方たちとベルリンフィルやオパーなどに足しげく通ったりもした。
西ベルリンで美容院もいくつか行ってみて、パーマをかけるときは「日本人の髪はドイツ人の髪よりパーマがかかりやすいのでなるべく早くロットを取ってください。」とかめちゃくちゃな英語だったかドイツ語だったか忘れたが、注文もつけられるようになった。

そんな風に、初めの頃の私は東ベルリンのことより西ベルリンを知ることの方を優先し、
「鉄のカーテン」と呼ばれた国境の壁を・・・東ドイツの人が命をかけても超えようとしている壁を、
検問を受けながらも、往来することに次第に慣れ、生活の中に組み込まれていった。
当時私は20歳代だったが、西と東の差は20年くらいあるように感じ、
1日の間に20年のタイムトンネルを行ったり来たり、くぐりぬけている感覚だった。

西ベルリン 

西ベルリン

西ベルリン

ベルリンフィル












8. ドイツ語学校の友達 [1986年~91年東ドイツ回想録]

東西冷戦の象徴と言われたベルリンの壁があった頃。

私は東ベルリンのアパートから例の国境検問所・チェックポイントチャーリーを通り、毎日西ベルリンにあるドイツ語学校に通うことにした。
西ベルリンには外国人のための語学学校はたくさんあって、授業料も高いところからお手ごろのところまで探せばいろいろあったが、私は日本人駐在員妻が選ばないような、とってもお手ごろの私立のドイツ語学校を選んだ。
場所も西ベルリンへ出てしまえば、地下鉄で一度乗り換えがあるものの、15分くらいだったので
便利だった。
週5日午前中の3時間授業で、確か1ヶ月200マルクくらいだった記憶がある。確かに学校の
建物自体はあまり上等とは言いがたかったが、日本円で2万円もしなかったので毎日授業があることを考えると、本当に安い学校だったと思う。
ベルリンに到着したのは夏だったので、その2、3ヶ月経ち秋から初心者クラスに入りまず1年間を
そこで学んだ。

使い古した懐かしい教科書を探して写真をとってみた。。

20年ぶりに最初のページをめくってみる・・地図がまだ東西ドイツに分かれている。。

手前左の振り向いている白いシャツの男性がペーター・マイヤー先生。
Hannover出身で綺麗な発音、授業もわかりやすく、人間的にも優しくて、とても素晴らしい
先生だった。

春には先生が音頭をとってくださり、ちょっとした市内観光をしたり、クラスでピクニックにも行った。
ドイツにはトルコ人が多かったのだが、授業料がお安かったのもあるのかもしれないが、このクラスもトルコの人やイスラム系の人が多かった。
クラスは和気あいあいとして、活気があって、私はソングルという名の親しい主婦友達もできて毎日通うのが楽しみだった。語学は1から現地で習うのがやっぱりいいなぁと実感。

チュニジア人のおじさん(名前を忘れてしまった)、トルコ人の宿題忘れていつも先生に怒られていたイスマイール、髭がいっぱいのモスタファ、家に招待してご馳走してくれたり一番仲良くしてくれた若妻のソングル・・医者志望のイラン人姉妹のベナスとベノッシュ・・・等々・・

ライヒスターク(旧帝国議会議事堂)

学校帰りにカフェに寄り、覚えたての片言ドイツ語で一生懸命おしゃべりをした。
みんな元気に幸せに暮らしているかしら・・・


家族のほんわか♪ [日々のなにげないコト]

うちはめったに夜、外食をしません。。。

近年、家族全員が揃う日がなかなかないこと。揃っても誰か一人がちょっと遅かったり・・と、まぁこれが一番の理由だが、もともと皆家で食べるのが好きである。それぞれが外食するのはままあるから、家族が揃う時は自然と家ゴハンになる。

しかし

昨夜は家族皆が夕方早い時間から揃うことがわかったので、単身赴任中、一週間の一時帰国最後の日の夫を囲んで1回くらい家族全員そろって外に出ようと息子の提案で、焼肉屋さんへ行くことになった

駅前の韓国のおばちゃんがやっているとっても美味しい家庭的な韓国料理屋さんに行こうと電話したが予約が取れず、車で5分のちょっと小奇麗な焼肉店へ

 写真を撮るのも忘れ、

お肉の追加に追加を重ね・・・チヂミ、クッパ、石焼ビビンバ、・・・などなど・・・・   

最後は抹茶アイスでしめた

食べた、食べた・・息子には出る前におにぎりでも食べさせておけばよかった・・ 

帰りの車中、ノンアルコールの私の運転。

「4人で車に乗るの久しぶりだよね~~」と娘。たった5分の帰り道。

このままみんなで夜のドライブにでも行きたい気分・・

久しぶりのフルメンバーでのお出かけ。。。なんだかしみじみ・・家族が揃ったほんわかをかみしめた


夏野菜 [日々のなにげないコト]

昨日の雨から少し残暑も和らいだ感じ・・・

でも日中はやっぱりあつい・・

先日、夫の実家では義母がお庭で家庭菜園をやっているので野菜をいろいろいただいてきた

野菜が大好物のなのでこういうのが一番うれしい。家族もみんな野菜好き

大量のピーマンやささげ。いんげん、にんじん、とまと、きゅうり。などなど・・

去年はジャガイモがダメだったが、今年のジャガイモは大きくて成功だとか。

大地のめぐみ。美味しくいただこう

 

 

 

せみさんも・・

 

蝶も・・

 

ひまわりも・・

 

 

 

もう夏も終わりに近づいてますね・・・

 

 

 

 


9. 友達の結婚式Hochzeit [1986年~91年東ドイツ回想録]

今からちょうど20年前のお話。
まだ東西冷戦の象徴ベルリンの壁があった時代。

この写真は東ベルリンで友人の結婚式に出席した時の1枚。

新郎は日本人、新婦は東ドイツ人である。
半年待ってやっと国から結婚の許可が下りての、結婚式だった。
日本人男性の方は夫とは同業他社の日本企業独身駐在員。
東独人女性はこれまた別の日本企業の現地雇員として働く日本語も堪能な才女・キャリアウーマンだった。

当時の東ドイツと取引のある日本企業などは同じビル(International Handels Zentrum)の中に事務所を構えている場合が多く、当時、この独身同士の若者なら出会うべきして出会ったと言ってもおかしくはないと思う。それに、お2人とも美男美女、女性の方はドイツ人らしからぬ、小柄でほっそりした美女だった。
男性の方は夫と同じ年、女性も私と同じ年である。
東ベルリンには日本人は数えるほどしか住んでいなかった。お互い同年代だったのもあり、休みの日にテニスに行ったり、一緒にドライブに行ったり食事をしたりしてとても親しくなった。
彼らは結婚の約束をしていて、役所に結婚の申請をしていたのだが、なかなか許可が下りず、
随分大変な思いをしていた。
当時の体制を考えると、結婚で国外へ出るという手段があるため国際結婚は難しい状況だったのだ。偽装結婚などもあったそうなので、早々許可が下りるものではなかった。

式の後、グランドホテル(Friedrich str.)にてお食事。

日本人男性の方は、日本から駆けつけたご両親、会社の上司ご夫妻。
東独人女性の方は、ご両親と、妹さん家族、友人。
そして私達夫婦。
内輪だけでの結婚式。
式のあとは当時東ベルリンの最新最高級のホテル「グランドホテル」で披露宴が行われた。
私達にとっても、それまでの経過を知っているだけにとても感動的な結婚式だった。
東ドイツでの結婚式に戸惑いながらもとても嬉しそうにしていらした優しそうな、実直そうなご両親の姿がとても印象的だった。

彼らは結婚後、西ベルリンに住み、当時多くの日本人家庭がそうしていたように旦那さんが東ベルリンの会社に国境を越えて毎日出勤するという形をとった。その後・・、転勤で日本での生活を経て、現在は家族4人ドイツのある街で幸せに暮らしていると聞いている。

いつか再会できる日をとても楽しみにしています。。。


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。