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10. 東で思うこと。1 [1986年~91年東ドイツ回想録]

東西分断の時代、1986年11月の東ベルリン、週末のある日。
この写真はポツダム広場方面を背にして撮ったLeipziger通り。片側3車線の大通りである。

ここを左に曲がるとFriedrich通り。そして右手に行くとすぐに壁があり、私が毎日のように出入りしていた例のチェックポイント・チャーリーがある。

普通の週末。人も車も少なく、閑散とした街である。

左手前の黄土色の古い建物の裏手に地下鉄の駅の入り口があった。そこは長い間、鉄の門で閉ざされ、人が入れないようになっている。使われていない地下鉄の入り口。
駅の名前は「Stadtmitte」。・・「街の中心」である。
この写真を撮った3年後の壁開放(1989年)後、この地下鉄が再開通するなんてまだこの時は想像だにしなかった!

この辺は東西ベルリンの境界線・壁が近くを貫いていたので、当時は閑散とした何も無い場所、そしてポツダム広場あたりまで何もなく、荒涼とした感じで、東側では人が近寄るような場所ではなかった。
しかし、現在は観光ガイド本にみる、ミッテ地区として綺麗に街を整備された。ジャンダルメン広場(シャウシュピールハウス・フランス教会・ドイツ教会)に程近く、ウンターデンリンデンブランデンブルグ門までも徒歩10分くらい。そして写真の背中側はソニーセンターなどの最先端のビルが建ち並ぶ新興地区ポツダム広場に続いている。まさに絶好の観光スポットとされ、この写真とは全く別の世界に生まれ変わっている。

私達はこの時1991年に帰国したのだが、壁開放の9年後である1998年に再度旅行でこの場所を訪れた。
まだこのLeipziger通りの、当時高級アパートと称された外国人用のこの白のアパート群は残っていた。
左側の黄土色の古い建物の、隣の白い建物が私達が住んでいたアパートである。
再訪できた嬉しさと、様変わりしている驚きと、5年間を過ごした郷愁の思いにかられて涙が溢れそうになった。  







追記※ポツダム広場:Wikipediaリンク


11. 東で思うこと。。2 [1986年~91年東ドイツ回想録]

今から20年程前。
まだベルリンの壁があった東西冷戦の時代。
iPodや携帯電話はなかったが、それでもお金さえ出せば十分すぎるくらい
何だってあった。西側諸国には。

私は東ドイツの首都、東ベルリンに約5年間住んでいたわけだが、当時、
日本人が東ベルリンに何人位住んでいたのだろうか・・定かではないのだが、
そうそうたくさんはいなかったと思う。
東ドイツ日本大使館関係の方はご家族ともども東に住んでいらっしゃる場合が
多かったと記憶している。
そして、東ベルリンに事務所を構える日本企業自体、当時は少なかったのだが、
1.住居を東ベルリンに持ち、家族ともども東に住んでいる。
2.住居を西ベルリンに持ち、ご主人が東へ毎日国境をこえて出勤してくる。
の2通りの方法があった。我家の場合は1.だった。

どちらの方法をとるのかは、それぞれの会社の方針や家族構成等々による。
お子さんの学校の事を考慮しなくてはならない場合、
日本人補習校は西ベルリンにしかなかったし、
その他の教育環境を考える場合、西に住む方が良い場合もある。

実際に1.をとっている企業は私の知っているだけでは数社だった。
我家の場合は会社の方針で、何も考えずに東に住んだのだが、
その後もどんなに大変でも、西に住んでいれば・・と考えたことは1度もなかった。
疑問にさえ思わなかった。
今思うと、若かりし頃の当時、日々すべてがものめずらしく勉強であり
与えられた環境の中でほんの少し・・
より良く、より楽に、より気持ちよく過ごしていくことしか頭にはなかったのだと思う。

そして、
もしも・・有事が起きたら・・・
そんな事を考えると、「家族はすぐに連絡が取り合える壁のどちらか一方に
一緒にいる時間が長い方がよい。」・・・とも私は感じていた。
実際、東西ベルリン間の電話回線は意図的にとても繋がり難かった。
冷たい戦争・・とは言え、戦争を全く意識しないわけではなかったのだ。

しかし、実際は夫が東でお仕事、私が西へお遊びに・・・と、
壁を隔てて東西に分かれている時間が結構長かったのだが。。。

東ベルリンのクリスマスマルクト 86年



12. ベルリンの壁について [1986年~91年東ドイツ回想録]

今日はベルリンの壁について少し書きたいと思います。

1.連合軍に占領されたドイツ

第二次世界大戦でヨーロッパ大陸の広大な領土を侵略・征服したドイツは、
結局、東からはソ連軍、西からはアメリカ・フランス・イギリス連合軍に攻め込まれた。
ヒットラー亡き後、1945年ドイツは無条件降伏。
この結果,
ドイツ北東部はソ連に占領される。→急激にソ連化される。
ドイツ北西部はイギリス・南部はアメリカ・南西部はフランスに占領される。

どこの国の軍隊によって占領されたかによって、その地域の運命が大きく変わっていく・・


上の地図:右の赤い所がベルリン市。ソ連占領下(東ドイツ)にある。
下の地図:ベルリン市拡大地図。西ベルリンの周りの黒い線にそって壁が建設された。         

2.首都ベルリンは共同管理に

ドイツ全体が4カ国によって分割占領されたことによって、エルベ川の東にあったベルリンは、 地理的にはソ連占領地域に入っていたが、首都であることを理由に4カ国の共同管理となる。
その結果,
ベルリン東側 → ソ連 ベルリン西側 → アメリカ・イギリス・フランス

           首都ベルリンはいわばドイツ全体の縮図になった。

3.東西二つのドイツ

 ベルリンばかりでなく、戦後のドイツをどうするかをめぐってソ連と西側諸国の意見が対立。

ソ連 ドイツから取れるものはなんでも取る。復興には興味がない。
西側諸国 戦争で混乱するドイツ経済をどう立て直すかを考える。

政策の違い 対立の激化 
   ソ連占領の部分は1949年東ドイツとなる。→経済復興はままならない。言論の自由なし。
   アメリカ・イギリス・フランスの占領部分は1949年西ドイツとなる。→順調に復興。

4.ベルリンの壁建設

東西ドイツの境は国境として鉄条網や地雷が設置され、東ドイツ国民が西へ行くことは容易なことではなかった。
しかし東ドイツ国内にあるベルリンへ入ることは当時、簡単だった。
東西ベルリンの境の警備にも限界があり、東ドイツ国民は東ベルリンから西ベルリンへと殺到する。
いったん西ベルリンへ入れば、鉄道や高速道路、航空機を使って西へ行くことができたからだ。

    1961年、朝目が覚めたベルリン市民は、ベルリンが壁と鉄条網で東西に分断
    されていることに気づく。

 このルートを使って脱出する市民が急増したのでこれを阻止するために東ドイツは「壁」の建設に
踏み切ったのだ。
日曜日の朝突然に家族と会えなくなる人が続出した。
東ドイツは西ベルリンを包囲する形「ベルリンの壁」を建設した。

       いわゆる「ベルリンの壁」とは東西ドイツの国境に建設
     されたのではなく、東ドイツの中に浮かぶベルリンの中を
     (ベルリン市の西側部分を壁で取り囲む形で)
東西に分断
     するものだったのである!

※自分のおさらいのつもりで少しですが簡単にまとめてみました。
 4年前に子供のために買った、週刊こどもニュースでおなじみの
 池上彰さんの「そうだったのか!現代史」を参照しました。


13. 東で思うこと。。。3 [1986年~91年東ドイツ回想録]

今の旅行ガイドブックを見てみると、ベルリン散策の見所は
旧東地区が代名詞のようになっている。
確かにブランデンブルグ門を通る目抜き通りウンターデンリンデンはパリのシャンゼリゼのような
ゴージャスな華やかさはないがどっしりとした重厚感があってかつての
ドイツ帝国の繁栄が偲ばれるような歴史の重みを感じさせる。
1989年に訪れた私の母も東の方が雰囲気がいいとお気に入りだった。


シュプレー川と歴史博物館(東ベルリン)

正直に言って、私が元気に西ベルリンの学校でドイツ語を習っていたころ
東にはあまり見向きもしなかった。
それに、うちには東のお金を普段からあまり用意してなかった。
西ベルリンで生活の全てを調達していたので必要なかったからだ。

そんな日常ではあったのだが、週末にはたまに夫とドライブで散歩もしたし、
平日も本当に時間があるとひとりで東を散策をすることもあった。
しかし、自分の住んでいる家がある街にもかかわらず、家からちょっと遠く離れると
なんとなくなんだが、不安な気持ちになったものだった。
東には一般的に言えばサービスという観念が少ない。サービスに慣れきっている
日本人である私には、情報も案内もない街は不安だった。
少ない情報をキャッチするほどまだドイツ語ができるわけではなかったし
多分英語もあまり通じないだろうと思っていた。
きっと、つたないドイツ語で話しかけても、素っ気無い態度に違いないし
一般の東独人は外国人と親しくなりたくても公然とはできないはず。
だから、こちらから接触するのも私の心のどこかで遠慮があった。
タクシーもほとんどないのでいざとなってもタクシーも使えない。
なんとも言いがたいが、暗くて、寂しい印象はぬぐえなかった・・

これは私の思い過ごしだったのか・・?
多かれ少なかれこれは当たっている部分もあると思うが、本当は親切な
国民であることはわかっていた。
外国人との密接な関係を持てないような体制なのだから、
こういう雰囲気はしかたのないことだと思ってもちろん納得していたのだが。

一人で出るときはいつも少し緊張感を持って、そしてものめずらしさ半分
おっかなびっくり歩いていたような気がする。
バック・トゥーザフューチャーと言ったら大袈裟だが、生意気にも一人
「先進国から来た人・・」みたいな気持ちにもなっていたのかもしれない。
隣の国である西ベルリンでは路線図片手に地下鉄でも市電でもバスでも縦横無尽に
平気で出かけるようになっていたのに自分の家の近くを歩く方が緊張するなんて・・・
なんかおかしな話である。


東ベルリン大聖堂、テレビ塔


ジャンダルメン広場で友人と。

しかし、それでも東ベルリンは私は大好きな街だった。
いろんな思いを抱きながら、5年の月日を季節と共にながめてきた。
街自体の雰囲気は厳かな感じでとても素晴らしかったのだ。
しっとりと静かに昔の面影がところどころに残っていた。
手が加えられ残されている美しさではなかったかもしれないが、ただ素朴に残っていた。
よく調べてみると、オペラもバレエも演奏会ももちろんちゃんと行われていたし、
世界遺産である博物館島も世界的にスケールも大きくて素晴らしかった。

まさかあともう数年先にはこの国がなくなるとは思ってもみないわけだから
今のうちに見ておこうなどと焦ったりはしていなかったのだ。


New York 9.11に寄せて [昔の海外回想録・その他の国や街]

1998年春休み ニューヨークでの思い出の写真

                WORLD TRADE  SENTER ツインタワー
               
          

                         自由の女神
               

2001年9.11
 ニュースステーションをつけていたテレビから目を疑うような光景が飛び込んできた。
LIVE でWorld Trade Senter のビルに飛行機がぶつかって燃えている・・・
まだテロだという認識もなく、「大変な事故がおきた・・」と、食い入るように
次の情報を見つめていた。
そうすると目の前の画面で2機めの飛行機が飛び込んできた・・・!!
衛星生放送で見ているはず・・
「何これ?何?何???え~!え~~~~!!!」

あれからもう6年もたった。
昨日思い返し、私にはこの間の出来事のような気がしたのだが。
マンハッタンにそびえ立つこの2つのシンボルがないなんて・・・
大多数の犠牲者を出し、世界中を悲しみの渦に巻き込み
まだ終わりが見えないこの恐怖はいったいどこへ続いていくのか・・

テロというものを許すわけにはいきません。
同じ星に住む人間同士、
暴力ではない歩み寄りがどうしてできないのでしょうか!!


14. 1986年夏 西ドイツ ドライブ旅行  [1986年~91年東ドイツ回想録]

私がベルリンに到着してまだ日も浅い1986年7月、
西ドイツ(旧西ドイツ)にドライブ旅行に行くことになった。
まだ私の引越しの船便荷物も着いていなかったと記憶しているが、
夫が夏休みが取れたので、まず1週間の予定で行き当たりばったり出かけようということになった。
夫は学生の頃にバックパッカー同様にヨーロッパ・アメリカなどを周ったことがあるので
今回の西ドイツもいくつか同じ街を行くことにもなるのだが、私は全く初めてのドイツだった。

ドライブルートは

1日目 ベルリン→バンベルグ→ニュールンベルグ(泊)
2日目 ニュールンベルグ→ローテンブルグ→ディンケルスブール→アウグスブルグ(泊)
3日目 アウグスブルグ→フュッセン→ボーデン湖→インメンシュタット(泊)
4日目 インメンシュタット→黒い森→ハイデルベルグ(泊)
5日目 ハイデルベルグ→トリアー→モーゼル渓谷→ベルンカステル→コッヘム→モーゼル沿いの
      小さな町(泊)
6日目 エルツ城→コブレンツ→ライン川上り→ローレライ→リューデスハイム→ケルン(泊)
7日目 ケルン→カッセル→メルヘン街道→ハーメルン→ベルリン

東ベルリンからの出発なので、まずは東ドイツを高速道路で南下して
もちろん西ドイツとの国境で検問を受けることになる。西に出るとなぜだか気分が緩む・・

途中、高速道路を使って一気に走ったり、風光明媚な道を地図で探しながら街道を
ゆっくり進んだりした。気の向くままに車を止めて風景を眺めたり、お茶したり。
今のようにナビがないので助手席の私がナビゲーションしながらだったので途中
道を間違えたり所々珍道中もありながらだったが、
お陰で私はドイツの街の位置関係を随分把握することができた。
ルートも宿も全く準備せずの旅行だった。
本当のところ私は夕方になると泊まるところを確保できるのかちょっと心配だったのだが、
夫は昔も今の冷静沈着なお方。
ヨーロッパの夏は日が長い。夕方たどり着いた街でホテルを探す。でも6時までが目安。
インフォメーションだったり直接ホテルに交渉したり。6時を過ぎてしまったら直接ホテルと交渉する。
ドイツの宿はどこも清潔。小さい街にたどり着いてとてもお安くて家族的なペンションに
泊まったりもしたが、今思い返すとそこが一番良かった気もする。
そして夕食時に、ワイン飲みながら「さて明日はどこに行く?」とガイドブックと地図を眺める。
道中、私がナビを間違えて助手席で焦っていると 
「道はどこまでも続いていますよ。」・・・・・と全く慌てない夫である。

掲載に耐える写真を少し・・・


ローテンブルグの街並み


ディンケルスビュール・子供祭りの様子


フィッセン                 ノイシュバンシュタイン城

  
ハイデルベルグの街並みとネッカー川      ドイツ最古の街トリアー


モーゼル渓谷エルツ城      ケルン大聖堂

どこの町も綺麗でかわいらしくて清潔で・・自然も歴史もあって・・
いい国だなぁ。
それから5年弱を住むことになる二つのドイツが大好きになる予感がした。


秋の気配 ほんの少し・・ [日々のなにげないコト]

日中は30度を超えまだまだ残暑厳しい日々ですが、
朝夕は虫の声が聞こえ、風や空が秋らしくなりました。

皆様いかがお過ごしですか・・
どうか皆様健やかに過ごすことができますように。。。

先日、こんな窓からも綺麗な夕焼けでした。

ちいさな花たち・・

宝石のよう・・・


秋鮭のマリネ・・・

明日は秋分の日・・・




*** Krause様からバトン受け取りました ***

微力ながらこちらにも掲載させていただきます。
この病気が広く認知され、良い薬が早急に認可されることを心から願っています。rino

 

  ムコ多糖症
  この病気は、人間の中でも小さい子達に見られる病気です。
  しかし、この《ムコ多糖症》という病気は、
  あまり世間で知られていない(日本では、300人位発病)
  つまり社会的認知度が低い為に、
  今厚生省やその他製薬会社が様々な理由を付けて、
  もっとも安全な投薬治療をする為の許可を出してくれません。

  ムコ多糖症は日々病気が悪くなる病気で、
  発症すると殆どの人が10~15歳で亡くなります。

  8月7日「SCHOOL OF LOCK」というラジオ番組で
  湘南乃風の若旦那が語ってから、私達に出来ることを考えました。
  それで思いついたのが、このバトンという方法です。
  5~6歳の子供達が厚生省にスーツ姿で出向いて
  自分達が生きる為に必死に頭を下げたりしています。
  この子達を救う為に私達が出来ることは、
  この病気を多くの社会人に知ってもらって、

  早く薬が許可されるよう努力することだと思います。
  みなさん、ご協力お願いします。

  [ムコ多糖症]
  ムコ多糖を分解する酵素が先天的に欠損している為、

  体内に蓄積することで様々な異常が引き起こされる病気。

  多くの場合、身体や精神の発達遅滞、骨の変形、水頭症なども伴う。

  重症の場合は成人前に死亡する。

  今のところ有効な治療法が無いので、

  骨髄移植や遺伝子治療の臨床成果が待たれる病気の一つである。

    http://www.muconet.jp/

  


1986年冬のイタリア [昔の海外回想録・その他の国や街]

東ドイツ駐在時代の1986年~87年の年末年始。
クリスマス~1月3日までの10日間を使ってイタリア旅行(ローマ以北)に出た。
この時も前回のドイツドライブ旅行のごとくルート・宿すべて現地調達の旅である。
今でこそ、もうこういう旅はしなくなった我々だが、なんだかこんな行き当たりばったりも
旅の楽しみ方の一つだったんだと思い返している。
もちろん不慣れな私ひとりでは絶対にできない旅なのだが・・・

ベルリンーローマ間は飛行機、
ローマで1週間の予定でレンタカーをし、ローマ以北ぐるっと一周りした。
ドライブ旅行のルートは

1日目  ベルリン→ローマ到着  
      ローマ→フィレンツェ(泊)

2日目  フィレンツェ→ピサ→ミラノ(泊)
3日目  ミラノ→ヴェネチア(泊)
4日目   ヴェネチア(泊)
5日目   ヴェネチア(泊)
6日目  ヴェネチア→ボローニャ→アッシジ(泊)
7日目  アッシジ→ローマ(泊) レンタカー返却

8日目   ローマ(泊)
9日目   ローマ(泊)
10日目  ローマ出発→ベルリン

初めてのヨーロッパ旅行の私のために主だった観光地のみを周っていった。
都市間の移動は高速道路ありで、フィレンツェーミラノ間は長かった記憶がある。
そしてドイツより運転が乱暴なので都会の中心地を走るのは慣れていないと危険な感じだ。

古い写真ですが、掲載できそうなものをいくつか・・・

 
フィレンツェの街                     花の聖母堂 ジョットの鐘楼
クリスマスの日のフィレンツェ。どこもお店が閉まっていて、寂しい感じ。
賑やかで華やかな東京のクリスマスしか知らなかった私は、初めてクリスマスの意味を
感じとった。人々は家や教会で家族や親しい人たちと過ごしているのだろうと
文化の違いをとても感じたのだった。

    
ピサの斜塔に登り、上から見えた街並み    ミラノの朝 この日「最後の晩餐」鑑賞が目的


ベネチアのゴンドラと水上バス

   
夕暮れのアドリア海はとても綺麗だった      リアルト橋

   
   アッシジの修道院         趣のある古びた素敵な街だった


  1987年1月1日のヴァチカン      大勢の人々が集まった。


上右から2番目の窓から前のローマ法王          コロッセオ
 ヨハネパウロ2世の新年のご挨拶  


 パルテノン                    フォロ・ロマーノ

1週間ドライブで周ってきて、ローマに戻りうって変わって数日小春日和になったが、
やはり冬のヨーロッパはどんより暗くて、とってもとっても寒かった~。
厚手のセーター、ベルリンで買ったロングのダッフルコートにマフラーをぐるぐる巻き。
そう言えば、この年1987年初頭、ヨーロッパは大寒波でマイナス20度(ぐらい)を経験。
ベルリンの歩道も根雪になり、鼻の中も凍ってしまいそうだったのを覚えている。
イタリア料理は美味しかった・・・
まず本場のピザの美味しさを実感した旅行だった・・・


チャリティーバザー [日々のなにげないコト]

昨日は又暑さがぶり返した1日でしたが、気持ちの良い秋晴れでした。
前日友人から六本木でチャリティーバザーに出品するから覗いてみて。という連絡もらい、
ご近所のお友達を誘い、ふらっと出かけてきました。
少しの協力をと思い、温かく編んだイタリー製のオシャレなストッキングとコットンの布、
2枚500円(初めは1枚500円だったもの)でお皿を購入。

ホテルのこじんまりした会場だったのですが、人がいっぱいでなかなか品物が見られないほど。
今回のチャリティーは「幼い難民を考える会」でカンボジアへ寄付されるそうです。

その後、ホテルランチをした後、そこから歩いて5、6分の国立新美術館へ。
ブログお友達のmint_teaさん に触発されてフェルメールの「牛乳を注ぐ女」
見てきました。


フェルメールの代表作のひとつであるこの絵に関しては
特質や背景などの説明も詳しく、ゆっくりと堪能することができました。
「アムステルダムの孤児院の少女」や「井戸から水を汲む女」「台所」・・・
他にも17世紀~19世紀のオランダ日常生活の情景を描いた風俗画など
とても興味深かったので、想いを昔のオランダに馳せて楽しむことができました。


今年開館したばかりの国立新美術館・・黒川紀章さん設計


モダンな館内は光で満ち溢れています・・カフェやレストランも充実してます。

おまけですが、六本木ヒルズと東京ミッドタウンの写真も。お天気が良かったので


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