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つゆ [日々のなにげないコト]

うちのベランダの日日草。
梅雨の時期は私の髪の毛は湿気でグシャグシャになる。嫌だけどやっぱり雨も降らないと。。
それで私は美容院でストレートを少しかけてきた。
以前、ストレートにしすぎて年齢的に無理なヘアースタイルに・・
その失敗もあって今回は程よく毛さきはカールを残してもらった。
髪の毛が落ち着いてなんか気持ちもさっぱりした♪


2007年6月 デュッセルドルフへ行ってきます。 [ドイツ2007年6月]

2007年6月

6月の前半、ドイツに行ってきた。約1年ぶり。
夫がドイツに単身赴任して早1年半になる。
今回はKLでアムステルダム経由にしてみた。
成田、ひとりで出発。人一倍、いや三倍くらい心配性の私は、慣れているつもりでもいつも
出発のときはドキドキする。日本に気がかりなお留守番も残していくし。

トランジットしてオランダ上空。この頃は疲労もピーク。
空はどこまでもこんなに大きい・・・・・カメラ向けながら、
こんな空を見ながら、日本に置いてきた気がかりな留守番たちのこともちょっと忘れて
ココロは晴れ晴れしてる・・でも身体はちょっとキツイ・・・あぁ、もうちょっとのガマン!

この時期、ヨーロッパは緑や花たちが美しく、とても綺麗な季節である。
フライトで疲れた身体にも、鳥の声と緑が出迎えてくれる。そして夫もちょっと照れたような笑顔で。

近くの公園。
この時期まだ花粉が結構な量飛んでいて、私は滞在2週間のあいだ
花粉症で鼻水鼻づまりになってしまった。日本から用意していった市販の薬が役に立った。


アーヘン [ドイツ思い出の街角]

2007年6月

ドイツは日曜日はたいがいのお店は休みである。
デュッセルドルフからは車でアウトバーンを走ると30分くらいでオランダまで行ける。
オランダは日曜日もお店が開いているので、買い物がしたければ、オランダまでひとっ走りすれば買い物ができるのだ。
この日はオランダのローモンドのアウトレットを覗いて、マーストリヒトを経由してドイツのアーヘンへドライブ散歩に行った。アーヘンの大聖堂には感激。ケルンの大聖堂も壮大だけれど、私はこちらもなかなか見ごたえがあった。

大聖堂前の広場ではみなビールやお茶を楽しんでいる。

街角にはこんな噴水が。




マウルブロン [ドイツ思い出の街角]

2007年6月

カールスルーエとハイルブロンの間の位置するマウルブロンという村。

12世紀ごろに建てられた修道院がある。世界遺産である。
この日真夏を思わせるような日差しの中、石造りの回廊の中はひんやりして
大昔の空気をそのまま残しているようだった。





ストラスブール [フランス2007年6月のアルザス]

6月前半の祝日を利用して夫と2泊3日のドライブ旅行に出た。
前日まで、フランスのモンサンミッシェルまで行ってみようかと話してはいたのだけど、
時間と距離的なことから、それはまたいつか・・ということで取っておいて、
今回は私が以前から興味があったフランスのアルザス地方へ足を伸ばすことにした。

ストラスブールの街。アルザス地方はドイツとの国境近く、昔からフランス領になったり
ドイツ領になったりした歴史から今もドイツの面影を残している。木骨組みの建物がドイツらしい。

ストラスブールの大聖堂。


前日に予約したホテル。ストラスブール郊外にある。この日、ドイツのマウルブロンに
立ち寄ったのでホテルに着いたのは7時ごろだった。

1階の部屋から裏のバルコニーを開けると

イル川の流れが臨める。


アルザスワイン街道の花 [フランス2007年6月のアルザス]

翌日はアルザスのワイン街道めぐりをした。
葡萄畑の合間をめぐっていくと次々と小さな街、かわいらしい村が現れる。
ヨーロッパの村をめぐっていくととても多いのだが、中心に教会があってそれを取り囲むように
家々が肩を寄せ合うようにたたずんている。

山の上からも撮ってみた。写真もドシロウトなので上手く撮れていないが・・

ワイン街道の村は花の美しい村としても有名だ。

どこの家も家主の思い思いの色の花で飾られる。道行く人々、そして私達の心も本当に癒される。

レストランの窓辺も

何気ない小道にも


村の入り口にはこんな花車でお出迎え



ワインを買う♪ [フランス2007年6月のアルザス]

山間の葡萄畑の中、村に入るとこんな石畳の街になっていて、結構、観光客?やワインを買いに来た人たちでにぎわっている。

アルザスワイン街道だから、もちろんお目当てのワインも買わなくては!
ワインのお店、お土産やさんが軒をつなれている。
残念ながら車で来ているので、試飲はほどほど・・・
このおばさんは商売上手。
最後にとっておきのワイン出してきて、「あ~これは美味しい~」と夫。
お値段もそれなりだけど、やっぱり美味しいものには勝てない。赤、白あわせて
3本のお買い上げ。

昨今、日本でちょっとブームになっていたマカロンの焼きたてのあま~いいい香りが
してきた。そこは私が試食の担当。日本のおしゃれなお菓子とはちょっと違うかもしれないが、
手作りの出来立てのお味は格別!
おもわず、お土産にもと、5袋も買ってしまった。

看板もかわいい。 「ビールありますよ。」かな?

「お手ごろ値段のお部屋あり。」 ドイツ語表記がうれしい。



今日の夕飯は・・ [日々のなにげないコト]

今日は男子校に通う高校生の息子の夏休みの宿題の一環で夕飯は彼の手作りになった。
ちょっと写真を拝借!
「包丁引いちゃダメよ!手切らないでね!」

バランスの良い一日の献立も考えて、スーパーでの市場調査から、買い物、すべて課題となって
いたよう。
そうね、男子もお料理の一つもできないと今や婿の貰い手がないかもね。
普段、料理などしない息子。なんだかんだで手順などは横からどうしても口をはさんでしまうrino。
子離れできない母、反省。↓

でもどうです!? 彼の大好きな豚かつ定食のできあがり。


1. 私のベルリンの始まり [1986年~91年東ドイツ回想録]

1987年4月 ベルリン ブランデンブルグ門 西側より撮影 

私は1986年~1990年までの5年弱を夫の駐在に伴い、当時まだドイツが東と西に分断されてい
た時代の東ベルリンに住むことになった。
当時はまだ「冷戦」の時代。今では小学生の社会の歴史テストに出てきそうな言葉だが、いや実に
本当に確かに冷戦の時代だった。
飛行機はソ連の上を飛べないからアンカレッジ経由の北極まわり。その時代の皆様には共感していただけると思うが、ヨーロッパって遠かった。
こんな遠いヨーロッパのしかも社会主義国である東ドイツに住むなんて・・どんな所だろう・・
生活物資は?病院は?戦争の危険は?・・・など不安ばかりだった。

西ベルリンのテーゲル空港に降り立った私は数ヶ月先に赴任していた夫が車で迎えに来てくれていて、自宅のある東ベルリンへ向かう。途中、西ベルリンのスーパーで食料品を買いだめた。
国境検問所であるチェックポイントチャーリー(Friedrich str.)で車ごと検問を受け
緊張のうち無事通過。ここからは東側。
高級高層アパートと称される外国人専用のアパートに着いた。国境のチェックポイントチャーリー
からは徒歩でも3分くらいのところだった。
自宅のあるアパートの9階の窓からは壁のムコウの西ベルリンが見えて、寝室側の裏手の窓からは
ドイツ教会、フランス教会がすぐ臨めた。今でこそ絶好の観光スポットに住んでいたことになる。

さてここが、これからはMy Home。
窓を開け、風を入れて・・ドイツの香りを吸い込む。清清しい気持ちになった。
その日から、東西を、ベルリンの壁を自由(?)に往復する日常が始まった。
今から20年近くも前の話である。




2. ベルリン窓から見えた景色 [1986年~91年東ドイツ回想録]

1987年 リビングの窓から 

真ん中奥の白い近代的な建物あたりはもう西ベルリンになる。
ブログに載せようとアルバムを開いてみると、初めのころの写真があまりないのに気がつく。
自宅から旅行に出た時の写真はけっこうあるのだけど、日常の写真を撮る習慣がなかったのだ。
思えば、残念ながらこの生活の記録を残すために・・とかあまり考えていなかった気がする。
もう少し郊外へ行けばきれいな所もたくさんあるのだが、外国人の住む家は当局から決められている場合がほとんどで、我々のいたアパートには各国の大使館の方々、企業の方々などが住んでいた。アパートの周りはいつも警察の見張り、部屋の中には盗聴器、そして電話は常に盗聴されているという環境だった。外国人が監視されているということの他に、東独人が西側の外国人、つまり資本主義の文化に触れないように、監視しているという意味もあった。

1987年 裏の窓から 

手前からドイツ教会、その向こうにコンツェルトハウス、フランス教会。
教会の左の白い近代的な高層ビル(IHZ)の中に夫の勤務先があった。
そしてそのビルをずっと左手の方へ行くと、ブランデンブルグ門の方へ続いている。
夕飯の下ごしらえが終わると、夫の帰りを待っていつもこの景色を眺めていたことを思い出す。
うちのアパートと教会の間はこんな風に資材置き場になっていたのだが、
後にここは現ヒルトンホテルが建つことになる。

たまたま2枚ともお天気の良くない日の写真なのだが、イメージとしてはこんな感じ。
西ベルリンはカラー、東ベルリンはモノクロ。
でも今となっては素朴なオストな場所が貴重になっている。
それにしても、なんでこんなに写真の撮り方がヒドイのでしょう・・
この時、まさかこの写真をブログで公開しようなどとは夢にも思ってなかったけど・・・↓


体力向上計画 [日々のなにげないコト]

御多分にもれず、我が家にもビリーがやってきた。

娘がインターネットで注文して、うちに届いたのはもう2、3週間くらい前のことだが、rinoはまだ始めの5分くらいしかやっていない。忙しい娘は夜、何日かは続けてやっているようだが、rinoはダメ。
テンポが速くてキツイことより、今日は家にいる日!ひとりでやろうとしても、つい後回しになる。
そう、つい後回しがだめなのだ。汗をかくからいろいろな用事を済ませてから・・なんて
思っているうちに一日はあっという間に過ぎてゆく・・・
夜はゆっくり過ごしたいからやりたくない。
ブームに乗ってやってみようなんて言い出したのはこのrinoだが、まだ3日坊主にも
なっていないな・・・
せめて3日くらいはやってみよう。話にもならないわ。
太っているわけではないが、近年体力不足を痛感しているrino。 まだ若いのに!!(笑)



3. ベルリン チェックポイント・チャーリー [1986年~91年東ドイツ回想録]

まだベルリンの壁がある時代。
西側からチャーリー検問所を臨む。ここがFriedrich Str.にある観光客が多く訪れる国境検問所だった。この右手前の角に壁博物館がある。

もう少し検問所に近づく。

もう少し。

You are leaving the American sector.
という看板、そしてアメリカ国旗が立てられているのがみえるだろうか。
まさに「今あなたは西側を離れようとしている!」という警告だ。
この右側の歩道をまっすぐ行くと、「歩く人用」という看板があって、歩いて国境を通る人のための入り口になっている。
車道は車で通る人用。左側の歩道の先の入り口は外交官パスを持っていて歩く人用。もちろんフリーパスである。車も中で右と左に分かれるようになっていて、左に行けば、外交官の特別ナンバーの車、右はその他で、人と車と両方検問を受ける。

さて、西ベルリンから歩いて国境を越えるには(東に入るには)、この門の中に入り、進んでいくと建物の入り口に続いていく。そこがパスポートコントロールになっていて、建物の中の正面に上半分だけがガラス張りの小さな小部屋がある。その中の小窓の向こうに係官がひとりこっちを見て座っている。小部屋というより人がやっと一人通れる細い通路というべきか。そこに一人一人はいっていくのだが係官がブザーを押しているときだけドアは閉開可能だから勝手に入ったり、勝手に出たりはできなくなっている。そこからは基本的に一人行動になる。そこでパスポートの写真と実物の顔をまじまじと見られ、スタンプが押される。観光客の方は隣に窓口があったと記憶しているが、ここで1日観光ビザに加えて西の25マルクを東の25マルクに1対1で交換しなければならない。
細い通路を通り、またドアがある。そのドアもブザーが鳴っているときしか閉開できないから、パスポートコントロールの係官が手動でやっているのでとても効率が悪い。
そして、パスポートコントロールを抜けると、また細い通路を左に曲がったり右に曲がったりして道なりに進んでいくと、ちょっと広い部屋にたどりつく。今度はそこが税関ということになる。そこでは荷物チェック。
基本的に、西側の新聞、雑誌、ビデオテープなどの資本主義の国々の情報、文化がわかるものはご法度だった。時と場合にもよるが、この荷物チェックはかなり厳しいものだった。
徒歩の場合、この部屋を無事抜けると、また迷路のような通路を右に左に通り抜け、外に出られる。そこはもう東ドイツだ。

観光客の多い時期はこの建物に人がいっぱいあふれ出す。
観光客の受け入れは外貨を稼ぐ絶好の手段でもあるはずなのだが、どんなに人が待っていようと、彼らの仕事はいつもと変わりない。通り道はたったひとつ。建物の中には椅子もトイレもない。人が簡単に走って通れないように迷路のように通路が曲がりくねっている。この国境はそう簡単には渡らせない、社会主義を守るための国家の意図を身近に感じられる瞬間だった。

私のビザは何回でも行き来ができるビザだった。お金の交換はなかったが、観光客と同じようにパスポートチェックと荷物検査は受けなければならなかったので観光客の多い時期はかなりのストレスになった。
それでも毎日のように一人でこの国境を行き来する生活を始めた。
食料、日用品の買い物、病院、学校、美容院、演奏会、オペラ、バレエ・・・レストランでの食事、お友達とのランチ・・・・・
東に住んでいながら、生活のすべてを西で調達する生活だった。
心の片隅では、東の人達が命をかけても超えたいと思っている壁をいとも簡単に越えている・・・と時に神妙思いながら。


4. 東ドイツの選挙事情・・私が聞いたハナシ [1986年~91年東ドイツ回想録]

今日、日本は第21回参院選、国政選挙の日だ。
私は早々に投票を済ませ、このブログを書いている。

私が東ベルリンに住んでいた頃、滞在3年目頃から東独人女性から家庭教師としてドイツ語を教えてもらうようになった。彼女は背が高く、金髪のロングヘアー、年齢のわりには大きなお嬢さんが二人いる美しい女性だった。
取り立てて反政府だとか、変わった思考の持ち主だとか、そういったこともなく私が思うに、ごく普通の階層の市民だったと思う。ただ、外国人家庭に出入りするわけだから、冒険心や、西側へのあこがれはある方だったかもしれない。
ドイツ語の文法を学びながらも、私が勉強が嫌になるとお茶を入れておしゃべりをし、それでその日の授業が終わってしまうなんていうこともたびたびだった。彼女は私を信用してくれていて、誰にも話さないようなことを随分話してくれた。「うちには盗聴器があるかも!」と言うと、そんな危険な話のときは声をひそめて、それでも何より私を信頼して話をしてくれることがとても嬉しかった。
その頃の私のドイツ語と言えば初級クラスを繰り返している程度だったが、気心も知れて仲良くなってくると相手の言っていることがなんとなく解かるものだ。
それでも一応ドイツ語のレッスンと称して我が家にやってくるわけだから、
会話の中でわからない単語は遠慮なく聞けるし、それでもわからなければ辞書をひけばよい。

そんな話の中で特に衝撃を受けたのは選挙の話だった。
東独の選挙投票率は100パーセントに近い数字だった。
まずこの事実だけでも日本では考えられないことだが、それには仕組みがあるという。
まず投票には絶対行く。行かないと誰が投票してないかわかってしまう。
投票しない=反政府=その家は出世できない・・という仕組みができあがっているという。
投票用紙には反対のときだけ何か書くようになっていて、誰が反対したかはすぐにわかってしまうから反対はなかなかできない。
私のドイツ語力と記憶の力では曖昧さが残ってしまうが、なんとなくどういう状況なのかはおわかりになるだろう。
それまでもそういう国だということはわかっていたつもりだったが、実際に生の市民の声を聞けて、「やっぱり本当なんだ。何のための選挙なの?共産主義って・・・・。ここを変えればもっと国が変わるかもしれないのに。」・・・なんて偉そうに夫にそんな論議を持ちかけたりしたものだった。
そして、何か私の心の中にずっともやもやした気持ちが残ったのは、彼女がそれを家族以外の東独人に言うことができないという事実だった。
言論の自由はない国だった。

東ベルリン時代の ウンターデンリンデン


5. 東ベルリンのスーパーで [1986年~91年東ドイツ回想録]

東ベルリンの街並みはなんとなくモノクロだったがそれはそれでなんとも趣があった。
・・と今になって思う。
西側のような派手な飾りもネオンもなく、静かなたたずまいだった。

ある日、うちのアパートの斜向かいの食料品スーパーに買い物に行ってみた。
面積としては大きなスーパーである。
売っているものは黒パン、ビニール袋に入った牛乳、バター、チーズ、野菜のびん詰め、パスタ、小麦粉、調味料、ハム、ソーセージ、肉、ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、ビスケットやお菓子・・
・・・などなど。しおれたきゅうり、きゃべつなども・・・・
結構何でもある。だいたい最低限基本的な物はある。もちろん、これで十分普通に暮らせる。

ただ、西側の人が見たら違いは歴然としていた。何の工夫も凝らされていないお店の
雰囲気もさることながら、
レタスなどの新鮮な葉物野菜や、色とりどりの野菜、季節外のくだものや南国の果物・・
こういったものはほとんど見かけたことがなかった。
スーパーの一角で人の行列があった。何だろう?と思って一番前まで行ってみると、
それはバナナだった。
当時はまだめずらしかったバナナを求めて人々は並んでいるのだ。
バナナが貴重品の時代・・日本では何年前のことだろう・・とそのとき思った。
私はこの列には並んではいけないと思った。

社会主義国の優等生だった東ドイツは、普通の生活を営むには十分満たされていたと思う。
世界に誇る博物館だって演奏会だって、オペラだってある。
ただ必要以上の贅沢はできない。
贅沢や娯楽がなくて不満を感じる人達はそれを知っている人たちである。
昔、贅沢な物がない時代にはそれを当たり前として過ごせたのだろう。
それを知らなければそれはそれで幸せに生きていけるものではないだろうか。
国家が西側の文化、情報を入れたくなかったのはそんな事情でもあった。

東ベルリンの大聖堂とテレビ塔



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