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11. 東で思うこと。。2 [1986年~91年東ドイツ回想録]

今から20年程前。
まだベルリンの壁があった東西冷戦の時代。
iPodや携帯電話はなかったが、それでもお金さえ出せば十分すぎるくらい
何だってあった。西側諸国には。

私は東ドイツの首都、東ベルリンに約5年間住んでいたわけだが、当時、
日本人が東ベルリンに何人位住んでいたのだろうか・・定かではないのだが、
そうそうたくさんはいなかったと思う。
東ドイツ日本大使館関係の方はご家族ともども東に住んでいらっしゃる場合が
多かったと記憶している。
そして、東ベルリンに事務所を構える日本企業自体、当時は少なかったのだが、
1.住居を東ベルリンに持ち、家族ともども東に住んでいる。
2.住居を西ベルリンに持ち、ご主人が東へ毎日国境をこえて出勤してくる。
の2通りの方法があった。我家の場合は1.だった。

どちらの方法をとるのかは、それぞれの会社の方針や家族構成等々による。
お子さんの学校の事を考慮しなくてはならない場合、
日本人補習校は西ベルリンにしかなかったし、
その他の教育環境を考える場合、西に住む方が良い場合もある。

実際に1.をとっている企業は私の知っているだけでは数社だった。
我家の場合は会社の方針で、何も考えずに東に住んだのだが、
その後もどんなに大変でも、西に住んでいれば・・と考えたことは1度もなかった。
疑問にさえ思わなかった。
今思うと、若かりし頃の当時、日々すべてがものめずらしく勉強であり
与えられた環境の中でほんの少し・・
より良く、より楽に、より気持ちよく過ごしていくことしか頭にはなかったのだと思う。

そして、
もしも・・有事が起きたら・・・
そんな事を考えると、「家族はすぐに連絡が取り合える壁のどちらか一方に
一緒にいる時間が長い方がよい。」・・・とも私は感じていた。
実際、東西ベルリン間の電話回線は意図的にとても繋がり難かった。
冷たい戦争・・とは言え、戦争を全く意識しないわけではなかったのだ。

しかし、実際は夫が東でお仕事、私が西へお遊びに・・・と、
壁を隔てて東西に分かれている時間が結構長かったのだが。。。

東ベルリンのクリスマスマルクト 86年



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