12. ベルリンの壁について [1986年~91年東ドイツ回想録]
今日はベルリンの壁について少し書きたいと思います。
1.連合軍に占領されたドイツ
第二次世界大戦でヨーロッパ大陸の広大な領土を侵略・征服したドイツは、
結局、東からはソ連軍、西からはアメリカ・フランス・イギリス連合軍に攻め込まれた。
ヒットラー亡き後、1945年ドイツは無条件降伏。
この結果,
ドイツ北東部はソ連に占領される。→急激にソ連化される。
ドイツ北西部はイギリス・南部はアメリカ・南西部はフランスに占領される。
どこの国の軍隊によって占領されたかによって、その地域の運命が大きく変わっていく・・
上の地図:右の赤い所がベルリン市。ソ連占領下(東ドイツ)にある。
下の地図:ベルリン市拡大地図。西ベルリンの周りの黒い線にそって壁が建設された。
2.首都ベルリンは共同管理に
ドイツ全体が4カ国によって分割占領されたことによって、エルベ川の東にあったベルリンは、
地理的にはソ連占領地域に入っていたが、首都であることを理由に4カ国の共同管理となる。
その結果,
ベルリン東側 → ソ連
ベルリン西側 → アメリカ・イギリス・フランス
首都ベルリンはいわばドイツ全体の縮図になった。
3.東西二つのドイツ
ベルリンばかりでなく、戦後のドイツをどうするかをめぐってソ連と西側諸国の意見が対立。
ソ連 →ドイツから取れるものはなんでも取る。復興には興味がない。
西側諸国 →戦争で混乱するドイツ経済をどう立て直すかを考える。
政策の違い →対立の激化
ソ連占領の部分は1949年東ドイツとなる。→経済復興はままならない。言論の自由なし。
アメリカ・イギリス・フランスの占領部分は1949年西ドイツとなる。→順調に復興。
4.ベルリンの壁建設
東西ドイツの境は国境として鉄条網や地雷が設置され、東ドイツ国民が西へ行くことは容易なことではなかった。
しかし東ドイツ国内にあるベルリンへ入ることは当時、簡単だった。
東西ベルリンの境の警備にも限界があり、東ドイツ国民は東ベルリンから西ベルリンへと殺到する。
いったん西ベルリンへ入れば、鉄道や高速道路、航空機を使って西へ行くことができたからだ。
1961年、朝目が覚めたベルリン市民は、ベルリンが壁と鉄条網で東西に分断
されていることに気づく。
このルートを使って脱出する市民が急増したのでこれを阻止するために東ドイツは「壁」の建設に
踏み切ったのだ。
日曜日の朝突然に家族と会えなくなる人が続出した。
東ドイツは西ベルリンを包囲する形で「ベルリンの壁」を建設した。
いわゆる「ベルリンの壁」とは東西ドイツの国境に建設
されたのではなく、東ドイツの中に浮かぶベルリンの中を
(ベルリン市の西側部分を壁で取り囲む形で)東西に分断
するものだったのである!
※自分のおさらいのつもりで少しですが簡単にまとめてみました。
4年前に子供のために買った、週刊こどもニュースでおなじみの
池上彰さんの「そうだったのか!現代史」を参照しました。