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1987年夏のスイスドライブ旅行 [昔の海外回想録・その他の国や街]

はたまたドライブシリーズ第三弾。 (第一弾:ドイツ) (第二弾:イタリア

東ドイツ駐在2年目の夏はベルリンから車で出発し、ユングフラウヨッホの山々と
マッターホルンを見に行こうというもの。
途中、ドイツの街やオーストリアの街なども寄り道する。
例によってルートも宿も決めていない。

1日目 さあ、東ベルリンを出発。東ドイツの中を高速道路で南下。検問を受け西ドイツへ入る。
目的はスイスの山だから行ける所まで突っ走る。
出発から7時間・・・ウルムに到着→泊
                                  
                                           ウルム
                       世界一のたかさを誇る塔を持つ大聖堂
                    
                                 

2日目 ボーデン湖のほとりをドライブしながら途中、ラインの源流を見に行く。
スイスの首都ベルン到着→街散策→泊
          
          ライン川源流                    ベルン
                                           

3日目 ベルン朝出発グリンデルワルトにお昼ごろには着いた。天気が悪い・・
雲で山の上が見えない。
INFOでホテルを手配し、チェックイン。
リフトでフィルストへ・・雲の中を上がっていくが上につくと何もみえない。
降りてきて街を散策。氷河見学など。
  
          ホテル                     グリンデルワルト 


                                      氷河

4日目 朝目覚めてホテルの窓を空けてみるとびっくり・・
昨日は雲で見えなかった山が朝日に輝いている・・・すごい。。感動。
早速登山電車でクライネシャイディックへ。アイガー北壁、ユングフラウ・・
思い描いた風景・・雪のかかったアルプスの山々に可愛い高山植物・・

   

    
                                   アイガー北壁 

また雲がでてきた。
午後からグリンデルワルト出発。峠を越えツェルマットへ向かう。
                

ツェルマットの街は環境のためガソリン車では入れないので一つ前の駅前の駐車場に
車を置いていく。車で来た人のために駐車場はとても広い。
登山電車で15分ぐらいだったか・・ツェルマット駅に到着。まだ夕方だった。
街からもマッターホルンが眺められる。感動・・・・
でも一番見たい頂をほんの少し雲が邪魔をする・・
川の欄干に腰掛けて日が暮れるまでいつまでもマッターホルンをながめていた。
ツェルマット→泊
                 



5日目 天気は良い。登山電車でマッターホルンにもう少し近づく。
本当にあと少しで雲がかかってしまう。
モンテローザや他の山々も輝いていた。

      
        ちょっと雲がかかっている・・
レストハウスでコーヒーを飲み、歩いて下山。
神々しいまでのマッターホルンの雄姿は時間を忘れていつまでもいつまでも
見ていられるほど心惹かれた。
       
        ほんの少し雲が・・・                 雲が取れたりからみついたり・・

午後ツェルマット出発。一駅で車まで戻って今度はルツェルンへ向かって出発した。
ルツェルン→泊
火災前の古いカペル橋と瀕死のライオン像
     
         カペル橋                       瀕死のライオン像
                              ルイ16世に忠誠を貫いたスイス人傭兵の慰霊

6日目 ルツェルン出発。チューリヒ経由オーストリアのインスブルック→泊
    
                  インスブルックの街

7日目 インスブルック出発。ザルツブルグ(オーストリア)着→泊
ゲトライデガッセとモーツアルト生家
           
     ゲトライデガッセ                      モーツアルト生家


8日目 ザルツブルグ出発。ドイツのミュンヘン着→泊
ミュンヘン市庁舎前はちょうどヨーロッパ民族衣装を来た人達が踊るイベントに出くわした。
      
      

9日目 ミュンヘン出発。レーゲンスブルグに立ち寄り、一気にベルリンへ。
東ベルリンの家に到着したのは夜だったと思う。

 

またスイスの山に会いに行こう・・・

 

 


15. 東西ドイツの出産 [1986年~91年東ドイツ回想録]

東ベルリン滞在は5年弱だったのだが、その真ん中あたりで私は第一子長女を出産した。

これまでにも私の東生活は度々記事にしてきたが・・
東に住んでいながら、私の生活自体は大まかに言えば、西側の人、
つまり今まで日本でしてきた生活と何ら変わりはない、ただ生活の中に
国境があるというだけだった。
もちろん、生活の中の国境があるだけ・・と言ってもそれはとても大変なことでは
あったのだが、その一番大変なそれさえ除けば・・・・
東西の国境を自由に何度でも往来できるビザがあるわけだから、
買い物もお金さえ出せばなんだって西側に行って買えるわけだし、
当然当然、言論の自由もある。
東独人が長い年月待ってやっと取れる運転免許だって西のお金さえ払えば
すぐに試験が受けさせてもらえた。
旅行だって縦横無尽。ドライブ旅行の他にも、スペイン、オーストリア、パリ、ロンドン・・・と
ここはヨーロッパとばかり西側へ向けて出かけて行った。

そんな生活だったので病院も、西側の病院ということになる。
何も考えずにそれは自然の流れだった。
そして、同じく東ベルリンに住んでいらした日本人奥様が西ベルリンの
マルチンルター病院で出産経験があるということを聞いていたので、
私達はその情報を頼りに、また他には情報源もなく1にも2にもその病院を選んだ。
又、夫の事務所の東ドイツ人の営業担当の年配女性スタッフのダンナ様が
東独の有名な心臓外科の先生だったので何かあったらいつでも言ってきて。と
心強い申し出もこんな時にはとてもありがたかった。
日本企業の現地スタッフである彼らも日本人が西側でなんでも調達している事は
知っていたし、それも当然のことだと考えていたであろう。西のものが何でも
高品質であることぐらい、政府がいくら隠していても東ドイツ人はとっくに知っていたのだ。

マルチンルター病院へ行くには、東ベルリンの家から
ベルリンの壁にある例の国境検問所チェックポイントチャーリーを抜けて西ベルリンへ出て、
そこからバスで30分くらい。タクシーでも20分ぐらいだったと思う。
病院は産婦人科が有名な病院で、そこの病院長のプロフェッサーが私の担当になってくださった。
そんなに大きな規模ではなく、住宅街の真ん中にある環境の良いこじんまりした病院。
中には小さな礼拝堂があったり、ちょっとしたお庭もあった。
私は結局、妊娠中トラブル続きで、滞在中、この病院に随分長い間お世話になることになった。

つづく。


病院の部屋。


16. 続・東西ドイツの出産 [1986年~91年東ドイツ回想録]

なんとか安定期入った頃、「今のうちにできることを」と動きすぎたせいなのか(?)
夜中に腰と横腹が痛く、眠れないほどの痛みに翌朝夫の運転で
病院にかけつけたことがあった。
プロフェッサーの診断はすぐに出た。「腎臓ですね。それに、陣痛もきています。」
まだ6ヶ月だったが即入院。
陣痛を止める点滴、5時間おきの注射、減塩食と水分摂取、安静の保持。
早産を回避するための処置もされ、この時は2~3週間の入院でなんとか無事切り抜けた。
入院中、痛みや不安はなかなか取れなかったが、看護師さんがとてもよく、明るく
面倒をみてくれた。夫以外頼れる人はいない中で
身も心も弱っているときは優しくてきぱきと働く看護師さんは
母のようでもあった。日本語だったらこんなことも聞けるし言えるのに
と思えることもいっぱいあったが、言葉が足りなくても、気持ちは
きっとわかってもらえていた。そして体のことは、大まかにしか解らない分
こうなったら、医者を心底信頼し、素直に身を預けることしかできなかった。

そんなこともあり・・・
やはり東ベルリンに住まいがあり、西ベルリンの病院に通うとなると
国境越えに対しては不安がなかったわけではなかった。
やはり壁があることで万が一のときは、東の救急車が西ベルリンの病院へ
連れて行ってくれるわけはない。
又仕事に出ている夫と連絡がとれない場合のことも考えて、
当初から早めの入院は考えていた。
そして病院側も配慮してくれ、出産予定日より1ヶ月半くらい前に入院することになった。

それから出産まで、早産の危険に備えて安静は保たなくてはならなかったが、
体調も良く、病院生活も寂しさと夕食さえがまんできれば、個室か2人部屋で設備も
充実していて常に快適だった。枕元に電話があったのが、一番ありがたかった。
病院の食事はドイツはお昼が温かいお料理で、夜は黒パンにチーズ。
これが毎日だと、お昼はそれでもバラエティーがあったが、夜はどうしてもうんざりしてくる。
毎晩見舞いに来てくれる夫が日本レストランから海苔巻きなどを買ってきてくれたりもした。
そして昼間は、西ベルリンの友人が持ってきてくれる日本の本や古い雑誌を本当にありがたく
隅から隅まで読んで過ごしていた。
それでも、入院が長くなると、「早く家に帰りたい・・・」。

安静を保つためほとんど寝て過ごしていたのだが
プロフェッサーからこれからは少しづつ歩くようにと言われ、
いよいよ出産が近づいてきた。

最後の入院から1ヶ月半くらい経ったころ。予定日の少し前のある日。
ある程度陣痛が進んできた・・・
看護師さんが「無痛分娩ですからね。」と。
私は「自然分娩がいいんですけど・・。」と言うと、
「こちらでは、ほとんどの人が無痛分娩ですよ。すごくいいのよ。」と勧めてくる。
と言うより、当然無痛分娩にすべき・・という勢い。
私は「えっ~~、あ、はい。でも~~はい。じゃぁ、そうします・・・」
本2冊とマタニティー雑誌数冊を読んだだけの知識のみ。
私は「まな板の上の鯉になろう!」(?)・・と決心した。
郷に入れば郷に従えで結局、無痛分娩で無事出産。
こんな小さな赤ちゃんを見たのも抱いたのも全く・・初めてだった。

確かに、お産は楽。その名のとおり、無痛分娩は痛くないのだ

入院が長かったお陰で、ドイツ語での産婦人科用語も覚えることができ、
看護師さんとも仲良くなり、何もわからないながらも安心してお産を終えることができた。


病院の朝食。自分である程度好きなものをチョイスできる。
私は病院の3食の中で朝食が一番喜んで食べることができた。

長くなってすみません。この後もう一回つづく。


17. 続・続 東西ドイツの出産 [1986年~91年東ドイツ回想録]


病院の窓からいつも眺めていたお庭・・・・
出産の翌日11月の後半のある日、この木々や落ち葉の上は真っ白な雪に覆われた。
入院の間にすっかり冬になっていたのだ。

いろいろあった出産だったのだが、なんとか無事だった。
病院のすべての方に感謝の気持ちでいっぱいだった・・・
10日後、退院。
さて、この退院までの間、夫は一仕事があった。
西ドイツで産まれた子供は、パスポートとビザがなければ東ドイツの我が家に
連れて帰れないのである。

以下は、数年後ドイツ駐在から本帰国し、夫が某週刊誌から取材を受け
海外勤務「とっておきの話」というコラム欄に掲載された文章を抜粋してみる。
夫がたくさんの話をした中で、記者の方が記事に取り上げたのはこの話題だった。
ただし、記者の方が文章と内容を構成しているので、ちょっと違うかな??というところも
あるのだが・・・

・・・・・・(略)、
駐在中の経験で忘れられないのは、【ベルリンの壁】がまだ存在していた’88年に
妻が出産
したことです。分断国家であったドイツの「壁の厚さ」を身をもって痛感することに
なったからです。・・・・・・(略)万が一、自宅で産気づいたときでも、東ベルリンの救急車は
到着するまでに1時間近くかかります。これでは恐くて妻を寝かせておくことができません。
そこで、出産を控えた妻はかなり早くから、ビザを取って西ベルリンの病院に入院するのです。
・・・・・・(略)・・・・無事出産。ここまではスムーズに行きました。
ところが、東ドイツ側が子の入国を許可しないと言ってきたのです。
西ベルリンの役所で作成した「出生届」を持って当局に行ったところ、
「あなたと奥さんのパスポートだけでは、娘さんのビザは発行できない。
まず結婚証明書を提出してください。」結婚証明書といっても、西ベルリンですぐに
手に入るものではありません。日本から戸籍謄本をとりよせなければならず、
これでは何日かかるかわからない。何度も足を運んで交渉してみたのですが、
どうしても認めてくれません。結局日本大使館に泣きついて、戸籍謄本の提出は
免除となりましたが、おかげで妻とわが子は10日間も病院で足止めを食らいました。
その間、私はオロオロと、何度も東と西を行ったり来たりする羽目に陥りました。
二つの体制の違う国の間であわてた経験は両独が統一された今では、
貴重な経験と言えるでしょうね。

久しぶりに引っ張り出して読んでみたがけっこう脚色が入っている。
「?」・・と思えるところもあるのだが、読む方にとっては面白いのかもしれない。

とりあえず、完。

 


お食事会 [日々のなにげないコト]

季節が良いせいか、この時期いろいろな会食が続きます。

10月、夕方の東京・京橋。

大阪発祥の老舗、「美々卯」 うどんすきはここの登録商標。
うさぎさんのマークが可愛い・・・
(私はこのお店の宣伝マンではないのですが・・・

素材・料理、こだわりの店。

うどんすきコースをいただきました。
まずはお造り。 わ~い!ウニだ・・・
食べ始めて気付いた写真撮影。家族以外の食事の席で写真を撮るのは実は初めて。
(この日はご一緒したお友達が写真を撮っていたので、忘れず撮れました。)

季節の素材満載・・・器、紅葉した葉っぱ、どれもお洒落。

松茸も・・・そして帆立。

蕎麦もこだわり・・・

メインのうどんすき。素材が丁寧に下ごしらえがしてある。
こちらのお店はお野菜もこだわりがある。

またまた松茸も・・・

お出汁は関西風・・・生きた海老も投入・・
貝のれんげがかわいらしい。・・れんげで押さえていないと海老が跳ねる!

薬味をそえて・・・

デザートは無花果のシャーベットと果物・・・

爆笑続きの楽しい会食・・堪能・・・
お腹いっぱい・・・

飲み物は?・・・冷酒といいたいところ。
でも、アルコールがあまり得意でない私はカシスオレンジ

海外の人、ドイツのお父さん、ごめんなさい。。。


これって文化の違い? [日々のなにげないコト]

ちょうど1年前の10月のことです。息子が中3のとき。
息子の学校に、ロンドン郊外の学校から日本語を勉強している15歳~18歳までの
男女合わせて16人が10日間の短期留学に来ました。
10日間のホームステイ+日光旅行2日間なので遠足のような、
体験学習のようなものだったと思います。
そのうちの一人のイギリス人男の子が我家でホームステイしました。

10日間のホームステイの最後の晩。
年から言えば、一つ年下になるうちの息子の方が兄のようでもあり、兄弟のように
仲良くなり、ホストマザー初体験の私もなんだかそんな2人が微笑ましく、
明日送り出すのが寂しくも感じていました。

最後の夜なので忙しい娘も夕飯に間に合うように帰宅して、食後のデザートも終わり、
息子達も遊んだり、皆で歓談したり・・そして明日の帰りの準備をしたり・・
最後の晩は更けていきました。
さてもう、寝る時間。そろそろ寝ないと、明日は彼らは日光へ見学に出発します。
皆がもうパジャマで「Good night!・・・」を言う頃になって・・・・

彼がイギリスからのお土産を、にこにこしながら渡してくれたのです

サッカーをやっている息子には地元サッカーチームのグッズ。
そして、家族には自分の住んでいる町のヒストリー本。紅茶。
そしてご両親からのお手紙。

日本では・・というか私の感覚なのですが、
特にこんな滞在型の場合はお土産は先に渡すのが一般的のような気がしていました。
どちらが良いというよりも、何も考えずに先に渡していた・・というのが私の感覚です。
ですから、実はちょっとびっくりしたのです。
彼は滞在中忙しく、また楽しくてすっかり「お土産を渡すのを忘れていた」・・という風でもなく、
「最後の最後までひっぱってひっぱって・・・渡そうと思っていた」・・という雰囲気がたっぷり
感じとられた場面だったのです。

ホームステイの受け入れは全くのボランティア。
私は変な意味ではなく、お部屋などを掃除していて、持ってきているようだけれど、
渡すのわすれちゃってるんだな・・いつ渡すのだろう・・
お茶面な彼の性格もわかってきて、預かった息子を見るような気持ちで
ちょっと気になっていたことは確かでした。

「お土産を先に渡す、後に渡すの違い」・・・
どちらでも良いと言えばどちらでも良いことなんでしょうが、
ちょっと面白い経験だったのです。
最後に渡すのはこれってイギリス式なんでしょうか 文化の違いですか
それとも彼の感覚、彼の演出、として最後に渡したかっただけなのでしょうか・・・
今だに、わからないのです。

10日間、ホストマザーとしてはちょっと困ったな~ということもあったのです。
次はそんなお話もちょっと聞いてください。

 


いったい何を食べるの? [日々のなにげないコト]

ホームステイを引き受けるのは気が進まなかった私
それでも、引き受けることになってしまったんだから楽しくやろうと、
そして私ができること、食事の面では日本を経験してもらおうといろいろ考えてはいたのです。

しかし、そんな考えは滞在2日目から木っ端微塵に吹き飛び・・・
とにかく、彼が食べれるものを・・・用意するのが一番の目的になりました。
当初のプロフィールには、嫌いなものは「FISH」しか書いてなかったのです。

まず、滞在10日間で食べられたものは・・・(○)
パン、白いご飯、きゅうり、トマト、シリアル、牛乳、ジュース、フライドチキン、ポテトフライ、
ハンバーグ、トマトパスタ(これが一番のお気に入りでした。)、ミートソーススパゲッティー、
果物全般。

そして、彼が食べられないものは・・・(×)
魚貝類(料理法に限らず)、卵、チーズ、ハム、ソーセージ、バター、マヨネーズ、ケチャップ、ドレッシングきゅうりトマト以外の野菜、きのこ類、肉類はミンチと鶏肉は少し食べられる。
日本食は全くだめ・・どころか試そうともしない。
もちろん醤油、味噌もだめ。クリーム味、カレー味、デミグラスソースもだめ。

とにかく、
野菜で食べられるきゅうりとトマトにしても、マヨネーズやドレッシングなどが嫌いなので
何もつけないで食べる。塩もかけない。バターが嫌いなのでサンドイッチのパンも何もつけない。
フライドポテトは食べれるけれど、ポテトサラダはドレッシングやマヨネーズが嫌いなのでだめ。
肉も少しは食べましたが、全般的にあまり好きではない様子でした。
日本食は白いご飯以外箸をつけようとしない。
和風の味つけがだめならといろいろ試しましたが、トマト味以外はあまりお好みではないようでした。
せっかくの料理も残るばかりでした。
とにかく本当に困ってしまったのです。
食べられるもの、素材にしろ、味にしろ、本当に少なくて・・・
そして、日本に来てなぜ日本のものを試してみようと思わないのだろう?
一体普段何を食べてるんだろう?と不思議にさえ思いました。
そして、この子は日本だけではなく、どこへ行っても、将来困らないだろうかと
心配もしたのです。

しかし、そうは言ってもこれでは体を壊しては大変と思い
とにかく朝だけでもきちんと食べさせなくてはと
近くのベーカリーでいくつかの種類のパンを買ってきて、そして果物をたくさん・・
どれがお好みか・・
そしてお弁当を持たせなくてはならなかったので、それにも本当に困りました。
日本式のお弁当ではだめだとわかったので、
毎日、バターもマヨネーズも塗らないパンにトマトときゅうりをはさんだ物と、ジャムやピーナツクリームをはさんだもの。それに、果物。彼のリクエストは毎日それでした。

食事をたくさん、いろいろ食べてもらいたい・・と張り切っていた私、ホストマザー。
その張り切りすぎの気持ちのギャップがだめだったのでしょうか。
途中から開き直り、とにかく彼が食べれそうなものをと考え試行錯誤したのです。
それでもなかなか上手くはいかなかったのですが。
食の好みは生理的な部分もあるので、いたしかたありません。
彼はもともと食が細い方だったのだと思います。
食べられないことを気にしているようでもありませんでした。
時々申し訳なさそうにもしていましたが、こんなことはきっと日常なのでしょう。



「私達の息子と過ごす滞在期間はあなたたちはどんなに素晴らしいでしょう・・・」
彼が最後の晩に渡してくれた、彼のご両親からのお手紙の一部です。

この手紙を読んで、始めは「?・・・」って思いました。
自分ではこんな風に書けないからです。
日本人の親だったらどんなに良い子、自慢の子でも、
相手のお宅にお邪魔するとき・・・
「ご迷惑をおかけしますが・・・」とか、「大変お世話をかけますが・・・」などの件がどうしても
入ります。もちろん、本当にそういう気持ちになります。そしてそういう表現をします。
日本人はやはりへりくだることが美徳という感覚がついているのでしょう。

ご両親の手紙を読み、愛情の表現の仕方、相手に対する気遣いの表現の仕方
・・私はこれぞ文化の違いをつくづく感じたのでした。
そしてこれは、感慨深い経験となり、ひとつの勉強にもなりました。

「うちの息子とどうぞ楽しくすごせますように。」が
日本式の
「お世話になりますが、宜しくお願いします。」という意味も含まれているのだと
私は独自の解釈をしました



到着翌日の日曜日は、子供同士で東京ディズニーランドへ。
皆でピザを食べに入ったお店でも、サラミを抜いて、しかたなく食べていたそう・・・。
一目瞭然。左がイギリス人(16歳)、右が日本人(当時14歳)。

 


老舗てんぷら新宿「つな八」で受け入れ家庭の3家族で夕食。
中央が我家に来た男の子。
このときも白いご飯とトマトしか食べなかった。


逆ウルルン滞在記 [日々のなにげないコト]

息子の学校からホームステイの話が来たとき、私は反対だったのです。

それには、私なりのいくつかの理由がありました。
まずうちはマンションで余分な空いている部屋はない。
学校から1時間以上かかるので遠い。
夫も単身赴任で留守だし十分にホストファミリーとしての役割が果たせない。
切羽詰った受験生の姉がいる。(実際、娘は二つ返事だったのですが・・)
私が英語から何年も遠ざかっているので全く自信がない。
そして、そして・・・
もっと学校に近くて大きくてふさわしい家があるでしょう・・・
こんな悪条件で我家にあたってしまった子に申し訳ない、という気持ちが
一番大きかったのです。

息子はどうしても自分が引き受けたいがために先生に
「母は反対だけど、やりたいんです」・・と言ったらしく、
男子の受け入れ申し出家庭が足りないこと、
(ロンドン近郊から男女合わせて16名が息子の学校に来た。)
他の家では親がやらせたくても子供が嫌だという家庭が
多いということ・・・などから学校からも何度かお電話があり、
本当に情けないんですが、しぶしぶ受け入れた状態でした。

しかし、やるとなったら楽しくやろうと思い
随分息子に愚痴ってしまったけれど反省反省・・・
どんな子が我家に来てくれるのか・・(イケメンかな~なんて・・・)

実際うちに来てくれた彼は金髪サラサラヘアーでとっても華奢でまだ幼さが残る
かわいい男の子でした。名はスコット君。(前回の記事に隠れ写真があります。)
学校の女子から大人気になり、ウインクを飛ばすような、茶目っ気たっぷり。
そして難しい数学の授業になると、どうどうと教科書も出さずに寝てしまって
先生に怒られるような、ちょっと困ったユニークな男の子でもありました。

息子とはジョークのセンスや、やわらかい話題(?)など、意気投合する部分も多く
受け入れをするにあたって、息子は最後まで自分で誠心誠意、
精一杯の彼のお世話とフォローをしました。
息子は当初、さんざん反対した私に
「家は遠いし、狭いけど、どこの家よりもウチに来て絶対良かったって思って
もらいたい
「お母さん、ホームステイは家じゃないよ。家族とどれだけいい関わりを持てたかだよ。
僕は絶対寂しい思いはさせない

・・・人として、私はとっても情けない母になってたんですね。。。。
そして息子は一生懸命にスコットとの10日間を何より自分が楽しんでいたようでした。


スコットは滞在最後の晩にもう一つ、自分が書いたお手紙をくれました。
それは、一生懸命日本語で書かれた感謝の言葉が並べられていました。

息子の言うとおり、
ああ、受け入れて良かった・・・と思いました。

そして、さらに翌日の土曜日。
偶然にも、今からちょうど1年前の今日。10月の最終土曜日でした。
集合場所まで送って、これでもう本当に最後のお別れ・・という場面。
まさに「逆ウルルン滞在記」。
スコットにも息子の目にも涙が・・・
息子の涙なんてもう何年も見てなかった私は、それにすっごく驚きながらも、
そしてその2人を見た私も・・・。

ホームステイを受け入れて、そしてスコットが来てくれて本当によかった・・・
「貴重な楽しい経験、ありがとう・・」




先日、夫の実家でいただいてきた柿です。
そういえば、スコットは日本の柿を「美味しい」と食べてくれましたっけ・・・




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