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16. 続・東西ドイツの出産 [1986年~91年東ドイツ回想録]

なんとか安定期入った頃、「今のうちにできることを」と動きすぎたせいなのか(?)
夜中に腰と横腹が痛く、眠れないほどの痛みに翌朝夫の運転で
病院にかけつけたことがあった。
プロフェッサーの診断はすぐに出た。「腎臓ですね。それに、陣痛もきています。」
まだ6ヶ月だったが即入院。
陣痛を止める点滴、5時間おきの注射、減塩食と水分摂取、安静の保持。
早産を回避するための処置もされ、この時は2~3週間の入院でなんとか無事切り抜けた。
入院中、痛みや不安はなかなか取れなかったが、看護師さんがとてもよく、明るく
面倒をみてくれた。夫以外頼れる人はいない中で
身も心も弱っているときは優しくてきぱきと働く看護師さんは
母のようでもあった。日本語だったらこんなことも聞けるし言えるのに
と思えることもいっぱいあったが、言葉が足りなくても、気持ちは
きっとわかってもらえていた。そして体のことは、大まかにしか解らない分
こうなったら、医者を心底信頼し、素直に身を預けることしかできなかった。

そんなこともあり・・・
やはり東ベルリンに住まいがあり、西ベルリンの病院に通うとなると
国境越えに対しては不安がなかったわけではなかった。
やはり壁があることで万が一のときは、東の救急車が西ベルリンの病院へ
連れて行ってくれるわけはない。
又仕事に出ている夫と連絡がとれない場合のことも考えて、
当初から早めの入院は考えていた。
そして病院側も配慮してくれ、出産予定日より1ヶ月半くらい前に入院することになった。

それから出産まで、早産の危険に備えて安静は保たなくてはならなかったが、
体調も良く、病院生活も寂しさと夕食さえがまんできれば、個室か2人部屋で設備も
充実していて常に快適だった。枕元に電話があったのが、一番ありがたかった。
病院の食事はドイツはお昼が温かいお料理で、夜は黒パンにチーズ。
これが毎日だと、お昼はそれでもバラエティーがあったが、夜はどうしてもうんざりしてくる。
毎晩見舞いに来てくれる夫が日本レストランから海苔巻きなどを買ってきてくれたりもした。
そして昼間は、西ベルリンの友人が持ってきてくれる日本の本や古い雑誌を本当にありがたく
隅から隅まで読んで過ごしていた。
それでも、入院が長くなると、「早く家に帰りたい・・・」。

安静を保つためほとんど寝て過ごしていたのだが
プロフェッサーからこれからは少しづつ歩くようにと言われ、
いよいよ出産が近づいてきた。

最後の入院から1ヶ月半くらい経ったころ。予定日の少し前のある日。
ある程度陣痛が進んできた・・・
看護師さんが「無痛分娩ですからね。」と。
私は「自然分娩がいいんですけど・・。」と言うと、
「こちらでは、ほとんどの人が無痛分娩ですよ。すごくいいのよ。」と勧めてくる。
と言うより、当然無痛分娩にすべき・・という勢い。
私は「えっ~~、あ、はい。でも~~はい。じゃぁ、そうします・・・」
本2冊とマタニティー雑誌数冊を読んだだけの知識のみ。
私は「まな板の上の鯉になろう!」(?)・・と決心した。
郷に入れば郷に従えで結局、無痛分娩で無事出産。
こんな小さな赤ちゃんを見たのも抱いたのも全く・・初めてだった。

確かに、お産は楽。その名のとおり、無痛分娩は痛くないのだ

入院が長かったお陰で、ドイツ語での産婦人科用語も覚えることができ、
看護師さんとも仲良くなり、何もわからないながらも安心してお産を終えることができた。


病院の朝食。自分である程度好きなものをチョイスできる。
私は病院の3食の中で朝食が一番喜んで食べることができた。

長くなってすみません。この後もう一回つづく。


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