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いろいろな秋・・ [日々のなにげないコト]

芸術の秋・・・




平山郁夫 「祈りの旅路」絵画展

シルクロードは、古くから東西を結ぶ交通路であり、文化が行きかう交流の道でもあった。
文明や歴史は名もなき一人一人の想いの積み重ねからなると考え、画面にそれを写し取ろうとする。
平山の描く風景画や人物画が分厚い歴史の確かな推積をも感じさせるとすれば、その作品は
かつて描かれた伝統的な歴史画とは異なる、平山が新しく切り開いた現代の歴史画ということもできよう。
                       (東京国立近代美術館 第3章 シルクロード より抜粋)

なんだか癒されたい気持ちで友人と平山郁夫さんの絵画展に行ってきました。
たくさんの作品の中で印象に残るものがいくつもありました。
上の2枚は私が買ってきた絵葉書です。
中でも、砂漠やらくだが描かれたもの、または、バーミヤンの遺跡や、ペルセポリスの遺跡など、
個人的には、どうしてもそういうものに惹きつけられるのですが、
他にも、釈迦が悟りを開く場面≪建立金剛心図≫や
平和への願いが込めれれている≪広島生変図≫≪平和の祈りーサラエボ戦跡≫、
シルクロードの史跡を訪ねたものなどたくさん、見応えたっぷりでした。

美食の秋・・・







10月は食事に行く機会が多く、美味しいものをたくさんいただきました。
お陰でウエストの辺りがちょっと危ない状態です・・・
せっかくのお料理をなかなか写真に収めることができず・・・
あわてて撮ってみた上の数枚も、全く上手に撮れていませんので、よろしかったら、
いくつかのレストランのホームページのリンクを貼り付けておきますのでご覧ください。
どこもとても美味しかったので御紹介します。

クィーンアリス アクア (こちらは、竹橋にある国立近代美術館の2階です。)
田園調布倶楽部    (東急東横線、多摩川駅下車です。住宅街です。)
COUCAGNO     (渋谷セルリアンタワー東急の40階です。お勧めです。)


秋のムラサキの花たち・・・





                                            (夫の実家の庭より)

11月になりましたね。今年もあと2ヶ月となりました。
1年の締めくくりもみなさまお元気で過ごされますように。。。

 


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18. となりのシュテファン [1986年~91年東ドイツ回想録]

冷戦時代の東ベルリン。
話はベルリンの壁崩壊直前の1989年ごろ・・・
外国人用のアパートに住んでいた私達はアパートの周りに常に銃を持った東独の警察官の警備があり常に監視されていた。こんな風に言うと窮屈な感じだが、実際はある意味治安の面では守れれているということなので、逆に安心して住むことができたと思う。
怖そうに立っている秘密警察官でも顔を合わせれば、こちらから挨拶すれば普通に挨拶を交わしてくれる。そんな時、瞳の奥の本来の優しさを私はいつも見逃さなかったものだ。

私達の家は9階だった。同じ階に4つのドアがあって、うちはエレベーターを降りて、
左手の突き当たりだった。うちの隣の家には東ドイツ人の一家が住んでいた。
外国人用のアパートのはずなのだが、このように見張り役として所々に普通の東独人家族を住まわせていたのだ。
見張り役と言っても何をするわけでもない。ただそこに住んでいるだけの役割らしい。
現に何も言ってきたこともないし、特に見張っている様子もない。
ただ、エレベーター前の廊下やゴミ捨てなどで顔を合わせることは度々だったが、
にこやかに、友好的に挨拶を交わすだけである。立ち話もしないし、余計な詮索は一切無しだった。
挨拶以上の言葉は交わさないお隣さんだったが、見ていると、家族構成は両親と小学生の男の子2人の4人家族のようである。もちろん共稼ぎ。服装も生活レベルも東独のごく普通の一般家庭という感じである。

我家に娘が生まれて、やっと春になり少し暖かい陽射しもさすようになると、私はよく乳母車で
家の周りを散歩するようになった。
そんな行き帰りに隣の家の男の子達に会うと娘をあやしてくれたり、ちょっかい出してくれたりするようになった。
ある日、いつものように廊下で娘と遊んでくれていたので
「うちで遊ぶ??」と誘うと、二人は屈託なく、喜んであがりこんできた。
うちにあるものを物珍しそうに見たり使ったりする彼ら。とても面白い男の子たちで
うちにあるものを使って自分達で遊びを考案して娘をあやしたり遊んだりしてくれた。
彼らのご両親も子供のことだから・・ということだろうが、特に何も言ってはこない。


写真右上がアパートの玄関前。こんな広い歩道が続いていて1階は店舗が入っていた。花壇もある。

彼らが何度か家に遊びに来るようになって・・・
私は兄のシュテファンに、どうしても聞いてみたいことを、遂に聞いてみることにした。
果たしてこんな質問をしていいのだろうかと・・すごく悩みながら・・ごめんね・・
「西にはこんなに美味しいお菓子もジュースも、おもちゃも何でもあるのよ。行ってみたいと思わない??」

私はなんと意地悪な隣のオバサン・・
彼らが自由自在には西に行けないのを知っていて、そんな酷な質問をするなんて・・・
でも、でも、でも、本当はみんなどう思っているの??
ここで本音を言っても、私は誰にも告げ口しないのよ!
どうしても、納得できない、腑に落ちない・・・そんな自分の自由主義の国で育ってきた
価値観のもとで聞かずにはいられなかったのだ。

そして、まだほんの小さなその小学4年生くらいのシュテファンが返してきた答に私はまた、
愕然とし、そして徹底した思想教育のすごさを垣間見て驚いた。
「西は犯罪が多くて、失業率も高い。だから僕は行きたくない。」

そうか・・・そうよね。。。
迷うことなく、こうさらっと答えたシュテファンは又、日本製のラジカセのマイクを持って
楽しそうに歌いだした。


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19. ドイツ ベルリン 壁のある街 [1986年~91年東ドイツ回想録]

ドイツ・ベルリン・・・ベルリンの壁(ベルリンの壁について簡単にまとめた記事)
壁のある街・・・壁のあった街。

壁の建設が始まった年・・・1961
壁が崩壊した年・・・1989
西ベルリンを取り囲む壁の長さ・・・約155km
そのうち、壁の東西ベルリンの境の長さ・・・約43km
壁の高さ・・・約3m~4m
壁を越えようとして失敗、死亡者・・・約230
壁を越えようとして失敗、逮捕者・・・約3000
壁を越えること成功、亡命者・・・約5000


20年前に買ったポストカード。すべて西ベルリンで買ったもの。
(すべて西側から撮影されたもの)



 
西側から撮影されたブランデンブルグ門と壁。
ベルリンの壁、東側では夜間は街灯が周囲を照らし、監視塔だけで約300ヶ所。
監視兵は約14000人。番犬は600頭。東ドイツがいかに必死になって自国民の逃亡を食い止めようとしていたかがわかる。西側からはこのように写真を撮ったり、壁まで近づいたりは簡単にできたが、東側でははまずそのようなことはできなかった。壁に向かって走ろうなどしたならば国境警備兵に撃たれかもしれないのだ。


 
実際には、場所にもよるが、壁の向こうの東ベルリン側には、フェンス・パトロール用舗装道路・溝・足跡のつく砂地・番犬・鉄条網・亡命を探知するケーブル・金網・東側のコンクリートの壁など数十メートルの分離帯があり、東からの逃亡する者は監視兵に容赦なく射殺された。 要するに、幅数十メートルに及ぶ二重の壁が西ベルリンを取り囲んでいたことになる。


 
これは西側から見た国境検問所(西側の呼び名チェックポイントチャーリー)。
国家の重要機密施設である国境検問所の東側からの写真は当然あるはずがない。
ある日、向こう側(東側)から車で強行突破事件が起こり、その後、この検問所内の車線も
蛇行するように変えられた。
時々、このような亡命者の突破事件が起こるので、真っ直ぐだった車線は度々変更された。



左上、及び右下の写真に見える手前の小さな小屋。アメリカの国旗が掲げられている。
それが実は西側の検問所。これをチェックポイントチャーリーという。
ここでは、もちろんノーチェック。



西ベルリン側に面した壁。このように落書きされているのはもちろん西側である。



チェックポイントチャーリー跡のすぐ近くに「チャックポイントチャーリー博物館」というのがある。ここには東ドイツの人たちが、どのように西側に逃げたのか、様々な手段が実物大の模型を使って紹介されている。壁の下にトンネルを掘って逃げた人、トラバント(東の自動車)の後部座席の下に隠れて逃げた人、また、気球にのって空から逃げた人の記録映画・・・等々、いろいろなアイデアで自由を求めて西側へ行こうとした人々の熱い想いが伝わってくる博物館である。






次回、私の体験した「ベルリンの壁崩壊のとき」を綴りたいと思います。
どうか、お付き合いください。

 


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20. ドイツ ベルリンの壁 開放のとき [1986年~91年東ドイツ回想録]

それは、1989年11月9日の夜遅くのことだった。 
歴史の扉が静かに開かれた・・・

周りの東欧諸国が少しづつ民主化を進めている中で、それに遅れをとっていた東ドイツ。
国内のあちこちで反政府デモが起こるようになっていた・・・でも、
まさか、そんなことがこの日に起こるなんて、私だけじゃなく、そこに歩いているドイツ人だって
思っていなかったと思う。

一夜明けた、11月10日。
夫は前日から西ドイツのデュッセルドルフに出張に行っていて、東ベルリンの家には
私と娘だけだった。
夫もいないし、朝もゆっくり。テレビ画面には日本から送ってもらって大事に大事に何度も観ている
NHK「おかあさんと一緒」のビデオが流れている。
ドイツのニュースなど昨夜から一度もつけていなかった。
大型高層アパートの9階(日本式10階)の部屋では下の喧騒など聞こえるはずもない。

1989年11月10日午前  東ベルリンLeipziger Str.


よく目を凝らしてご覧ください。これは我家のバルコニーから写した写真ですが、通りを渡った向こう側の歩道に人々の列が確認できるでしょうか。

午前中、何時だったか、リビング側の窓を何気なく・・・
本当に何気なく、窓の外に視線をやると・・なんだかいつもより人も車も多い気配がする・・・
何か異変を感じた。
「えっ?なんだろう・・?」こんな所に人がこんなに集まることは今までまずなかった。
バルコニーへ飛び出して、よく下を見下ろしてみると、
片側3車線の大きなLeipziger Str.が初めて見る車の大渋滞。
道の両端には車がぎっしり駐車してあり、
通りの向こう側の歩道には人々の長蛇の列ができている。
そして、その歩道に広がった人々の列は建物の角をまがっており、向かう先には、
西ベルリンへ出ることができる国境検問所・(西側の呼び名・チェックポイントチャーリー)
あるだけだ。
車も西の方面へ、国境検問所(チェックポイントチャーリー)へ向かう車道だけが大渋滞になっている。


見づらいので、人々の列に沿って→を付けました。
→の方向に建物の角を曲がると、数十メートルで国境検問所(チェックポイントチャーリー)があり、
それを超えると、そこは西ベルリンです。

東の住民が国境へ向かう・・・・??
「えっ? なに? 」「えっ?? うそうそ?」「ま さ か・・ね・・!?」
私は本当に独り言のようにブツブツ、そして心の中でこう叫んでいた。
いてもたっても、どうしていいかわからなくなった。
「もしかして、すごい事が起きている・・・!!」
普段からドイツのテレビを情報源にできるほど力のない私は、そのせいなのか、
なぜかテレビをドイツのニュース番組に変えようという案はその時全く思いつかず、
下へ降りて事実を確かめにいかなくては・・と咄嗟に思った。しかし、
娘を抱いて、降りていって、もし何か危険なことでもおこっては逃げるに逃げられない。

私は娘が午前のお昼寝をするのを待って、家を飛び出した。カメラをも持たずに。
ただ自分の目で確認するだけ・・ただそれだけの想いだった。
幸いにも、娘はとても育てやすく、昼寝もたっぷり、目覚めても一人で機嫌よくベッドの中で
遊んでいる子だった。
ちょっとの間だけ・・!!
私はエレベーターを降り、アパートの前のLeipziger通りを急いで横断、向こう側の歩道に渡った。
大きな歩道に広がった列の先端を突き止めようと走った・・・

「やっぱり!」・・・先端は私がいつも通っている、国境検問所(チェックポイントチャーリー)に
吸い込まれていた。
なんだか身体全体が震えるような感覚で、並んでいる人々を見ながら、
見えている一番先頭の人に駆け寄った。
「何が起こったんですか??」と問いかけた。
「国境が開放されたのよ!!」
人々の顔を見て、私は表現しようのないたまらない気持ちになった。
そしてほんの少しの間その場に立ちすくんでいた・・
意外と静かで、整然としていた。
乳母車を押した家族連れ。若い友達どうし。おじいさんもおばあさんも。
11月の寒空の中、皆いろいろな想いを抱いて、その時を並んで待っている。
信じられない光景を目の前にして、歴史が動いたんだという感動でいっぱいになった。
どのくらいの間だったか・・1、2分のことだったか・・
私は猛ダッシュで家へと走った。アパートの下までは走ったら2分くらいである。
それでも、行って帰って10分か、いやもうちょっと・・留守をしてしまった。
娘の寝顔を見てほっとすると、電話が鳴った。

デュッセルドルフにいる夫からだった。「大丈夫??」第一声だった。
普段冷静な夫も、早口、緊迫した口調だった。
こんな歴史的なことが起こるときは、何か起こってもおかしくはない。
「うん、大丈夫。何も起こってない。でも、下がすごい人なの!!みんなチェックポイントに
向かっているの!すごいよ。壁が開いたのよ!!!」
私は興奮がいつまでも冷めやらなかった。

今からちょうど18年前。
銃声ひとつ響くことなく、
民衆の力で
静かに、平和の中で・・・
まさに、私の目の前で・・・
冷戦の象徴であるベルリンの壁が崩れ落ちた。
「ベルリンの壁崩壊」は、その後の「冷戦の終結への始まり」となっていった。

 


深まる秋・・ [日々のなにげないコト]

朝の通勤途中。
気持ちの良い青空・・

小学校の音楽室から子供達の声・・
♪かきねの かきねの 曲がり角~~たきびだ たきびだ おちばたき~~♪ 

♪さざんか、さざんか、咲いた道~~たきびだ たきびだ おちばたき~~♪

かわいい赤い実をつけている木・・

もみじの葉っぱも秋の陽射しまぶしく・・

帰宅して・・
この日の夕焼けはオレンジでした・・


北風ぴ~ぷ~♪というより、とっても日中暖かかった今週・・
来週からは少しづつ寒くなりそうですね。
インフルエンザも流行の兆しだそうです。
皆様どうぞお身体お気をつけて・・・

 


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ぽかぽかのお部屋 [日々のなにげないコト]

とある週末の昼下がり。
マンションの部屋の中は、暖かい陽射しでぽかぽかです。

我家のベランダのお花。
小さいベランダに少しばかり、簡単に育つものばかりですが、
植物を絶やすことはありません。

観賞用とがらし。少し前に撮ったもの。

日々草・・このブログの2回目に登場。
風雨に打たれながらも、あっちこっちに伸びきってもまだ元気。
もう半年も楽しませてもらってます。

先日植え替えた紫色のパンジーと黄色のビオラ。きっと春先まですくすくと、育つでしょう。

幸せのバナナブレッド・・3本焼きました。レシピーはもとこさんのブログからです。
夫と、私の両方の実家にも持って行きます。

しっとりとして、それにごろごろのクルミをたっぷり・・
ものすご~く、美味しくってついつい・・・

こんなにポカポカでも外は・・

木枯らしが吹いてマンションの木はざわざわと大きくゆれています。
冬の到来ですね・・・。来週、インフルエンザの予約をしました。


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21. 壁開放後、国境警察のひと [1986年~91年東ドイツ回想録]

ベルリンの壁(Wikipediaにリンクします)

今から20年程も前のおはなし。
突然の壁の崩壊・・・
今まで何回か記事にしてきたが、私達の生活は壁と共にあったと言っても過言ではないほど
壁を通過し、壁で待たされ、壁に憤慨し、壁を考え、壁を想い、壁を意識してきた。
(なぜ東ベルリンに住んでいたかはこちら

東ドイツ人の立場とは全く違う形ではあったが、生活の一部となっていたことは間違いない。
そして夫婦共に愚痴をこぼしたことはなかったが、
それが私達の生活をハードなものとしていたこともまぎれもない事実であった。

東に住居がありながら、生活物資、娯楽、学校、病院・・全てを西で調達していた私達の
パスポートは国境をまたぐたびに押されるスタンプであふれかえっていった。
パスポートは東独日本大使館で増冊され、それでもページがなくなると、新しく作り変える。

出入国のDDR(東ドイツ)のスタンプが所狭しと押される。
スタンプは日付と検問所の通りの名前が入っている。<Freidrichstr Zimmerstr>

しかし、
壁が開放されたのだから、もうこんな手間はなくなったのだ・・・
時に観光客で混んでいる検問所で待たされることも、もうないのだ・・・
ものすごい安堵感で心もスーと軽くなっていったのを覚えている。

壁開放からほどなくして、検問所があった国境には国境警察官もいなくなり、
国境施設だけが取り残された単なる一つの「通り」と化していった。

壁開放からしばらく経ったある日、
家のそばを歩いていると、パスポートコントロールで勤務していた国境警察官の人が
奥さんと一緒に散歩をしているところに行き会ったことがあった。
私と気付いてにこにこしている・・・ほんの少し戸惑った感じだったが、「久しぶり・・!」と挨拶。

私は毎日のように国境を往来していた時期もあり、パスポートコントロールの国境警察の
幾人かの人達とは顔馴染みになったいた。
ある意味、顔パスというのだろうか、もちろんパスはさせてもらえないが、
観光客でごった返している時は私を見つけると列の一番前に来いと目や手で合図してくれて
先に通してくれる配慮をしてくれた。
私はこれでどんなに助かったことだろうか・・・

ベルリンに来て一番初め、夫に
「国境で待たされても、どんなに検査を受けても、文句を言ったりしてはだめ。
彼らはそれが仕事なのだからイライラしてもしかたない。とにかくいつも笑顔で挨拶をするように。」
と教えられ、それを忠実に守ってきたそのお陰だったのだ。

もちろん検問所の中では余分な話などしたことはない。どの警察官も仏頂面で
笑顔を返してもらうことなどあり得ない。
でも道でこんな風に行き会って、「お元気ですか?」なんて声がかけられるなんて・・!
時代が移り変わっていくことを実感として深くかみしめる出来事だった。

しかし、彼らはこれからどのように生きていくのだろう。仕事はあるのだろうか・・?
そんな事を心配しながら・・それでもその日は
普通のおじさんに見えた、かつての国境警察官の優しい笑顔が脳裏に焼きついて
いつまでも嬉しい気持ちでいっぱいだった。


22. ベルリンの壁開放後 人々の歓喜 [1986年~91年東ドイツ回想録]

1989年11月9日 ベルリンの壁開放

もう随分昔のお話なのだが・・
世界中に流されたベルリンの壁開放のドイツ人の歓喜の様子の映像を覚えいらっしゃるだろうか・・

そのおよそ数日後の週末、国境検問所(Friedrich Str.)チェックポイントチャーリーの様子。
西ベルリン側から撮影した写真。(車の中から撮影。)

東ドイツ車のトラバント。皆、西ベルリンを見てきて帰るところなのだろう。

下の写真はこれから東ベルリンを見に行く西ドイツ人や、西ベルリンへ遊びに行っていて
東へ帰る東ドイツ人で歩く人用の通路がある建物も、人があふれて大混雑になっている。
この時はまだパスポートくらいは見せていたかもしれないが、ほとんどノーチェックに等しい
状態だったと思う。
この建物の中は人が通れる通路は1本。行きも帰りもその1本の通路を使う。
しかも人が一人づつしか通れないようにくなっている。
パスポートコントロールの窓口もどんなに混雑しようとも一つしかなかったことからも
いかにそれまで国境を頑なに守ってきたかがよくわかる。
建物は一見広く見えるかもしれないが、多くの扉は締め切りになっていて、
まるでお化け屋敷の通路のようだと言えばちょっと想像がつくだろうか。
これだけの人が詰め掛けると、いくらノーチェックでも通るのに時間がかかってもしかたがない。

私達がいつも通っていたこの国境の丁度真下には、かつて東西を通している地下鉄の
使われていない線路があった。現在はもちろんU6として走っているわけだが、
東西が分断されていた時代には国境近くの東側の地下鉄の入り口は鉄の門で
硬く閉ざされていて立ち入ることはできなかった。
そして、壁が開放してしばらくすると、地下鉄の門も開けられ、大きな工事もなくいとも簡単に路線を再び開通させた。
塞がれることがなかった線路のトンネルの中には、40余年前の空気がそのまま閉じ込められているようだった。
目をつぶると、東西分断の悲しい歴史をたどる前の活気ある人々が縦横無尽にこの電車に乗って
自由を謳歌していたのだろうと、見たこともない昔を想像させられた。
私は自宅のアパートのすぐそばにある最寄の地下鉄の駅「Stadtmitte」から電車に乗り、
わずか一駅西側のKochStraß駅に着いたとき、
体制の違う国同士だったが、やっぱり一つの街だったのではないか!・・と
わかりきっていた事を改めて、むざむざと思い知らされたのだった。
亡命しようとして命を落とした人、なんとか乗り越えようとした人々の気持ち・・
それまでの私の国境の往来は何だったのだろう・・・

いろいろなことが壁開放と共に怒涛のように自由へと流れ出していった。

壁開放のドイツ人の喜びを、少しばかりでも日本人の私なりに感じる日々を過ごしていた。


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